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森川許六

『五老井發句集』

彦根藩重臣。名は百仲。通称は五助。別号五老井。菊阿仏。

 許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたという。「蕉門十哲」の筆頭。

撰者許六者。江州龜城之武士也。名百仲。字羽官。森川氏。號五老井。別號菊阿佛。 一見蕉翁。得正風躰實。血脉道統之門人也。常友李由俳書數篇

『風俗文選』(許六編)

 延宝4年(1676年)、彦根藩に出仕。

 延宝5年(1677年)、初めて江戸へ下向。

 元禄4年(1691年)6月、中山道を江戸に向かう。

ことし六月の末に此海道を下りしころのあつさに引かへたる事よ。此峠を上ルに善光寺へ詣つる法師はらの背にいみじく蠅の取つきたるをみて

   信濃路や蠅にすはるゝ痩法師

此句、江戸にて其角にかたりければ秀逸とて感じ侍ける。


信濃・上野を過、むさしの地にいりて芥子の花を見る。「馬頭初見米嚢花」といふ句の力を得たり。

熊谷の堤あがればけしの花


 元禄4年(1691年)10月9日、彦根藩中屋敷を出て彦根藩に帰る。

ことしや未の六月のころ、旅だちて故里をなむ出たり。むさしの江に官遊して、閣中にこめられ、旅客断腸のおもひを万里の月に寄せたり。水雲の身のならひに、又神無月初九日に東武の城を去て故山に趣くあした、旅亭の壁に書て去る

水鳥のたつ跡なみぞ江戸のもの
   許六


 元禄5年(1692年)2月、「五老井記」。

 元禄5年(1692年)6月5日、彦根を発って東海道を江戸に向かう。

 元禄5年(1692年)8月9日、天野桃隣の紹介で入門。

 明年七月、又東武に赴く。此時翁に対面せむ事をよろこぶ也。橘町より深川芭蕉菴再興して入り給ふ年也。江戸着の日数を経ず、桃隣手引して、八月九日深川の庵をたゝき、師弟契約の初なり。

『俳諧問答』

秋のくれ客か亭主か中柱
   芭蕉

 井伊家の邸に許六をたづねし時、許六たまたま家にあらず。依て彼が帰るを待うちの作なりとぞ。その中柱といふものは、今も猶井伊家ありといふ。


俳諧一葉集』には「考證」として収録されている。

 同年10月3日、赤坂彦根藩邸中屋敷で五吟歌仙。

   元禄壬申冬
   十月三日許六亭興行

けふはかり人もとしよれ初時雨
   ばせを

   野は仕付たる麦のあら土
   許六

油実を売む小粒の吟味して
   洒堂

   汁の煮(にえ)たつ秋の風はな
   岱水


栗原市の秋葉神社に「時雨塚」がある。



けふはかり人も年よれ初しくれ
   蕉翁

野はしつけたる麦のあら土
   許六

深川の芭蕉庵を訪れた。

   深川の草庵をとぶらひて


寒菊の隣もありやいけ大根
   許六

   冬さし籠る北窓の煤
   翁

『笈日記』(支考編)

『旅舘日記』(許六編)

 元禄6年(1693年)5月、木曽路を経て帰郷。

   旅行に

うの花に芦毛の馬の夜明哉

『炭俵』(野坡・孤屋・利牛共編)

許六を送る詞

木曽路を経て旧里にかへる人は、森川氏許六と云ふ。古しへより風雅に情ある人々は、後に笈をかけ、草鞋に足をいため、破笠に霜露をいとふて、を(お)のれが心をせめて、物の実をしる事をよろこべり。今、仕官おほやけの為には、長剣を腰にはさみ、乗かけの後に鑓をもたせ、歩行若党の黒き羽織のもすそは風にひるがへしたるありさま、此人の本意にはあるべからず。

椎の花の心にも似よ木曽の旅
   ばせを

うき人の旅にも習へ木曽の蝿
   同

木曽町の巴淵に許六の句碑がある。


山吹も巴もいてゝ田うへ哉

『韻塞』(李由・許六共編)

 芭蕉没後、許六は芭蕉遺愛の桜の木を切って芭蕉像を作り、智月に贈ったと伝えられる。

翁滅後遺愛の櫻樹モ伐テ肖像を彫刻、智月尼送る文、十月十三日におくる。

『蕉門諸生全伝』(遠藤曰人稿)

 元禄8年(1695年)1月23日、芭蕉の百か日。

   芭蕉翁遷化のゝち、伯父老祖父(おほぢ)身ま
   かりて愁情うちつゞきぬ。今年正月廿三日
   は先師百ヶ日の忌に当る。仍五老井にお
   (い)て門人捧句(くをささぐ)
  彦根
青柳や跡からふへ(え)る塚の数
   許六


 元禄8年(1695年)4月18日、支考は芭蕉の足跡を巡遊する旅で許六亭に泊まっている。

 元禄8年(1695年)、丈草は許六を訪ねている。

   遊五老井 二句

早咲の得手を桜の紅葉哉

あを空や手ざしもならず秋の水


 元禄8年(1695年)、江戸在勤中の許六は野坡・利牛と三吟歌仙。

   参 吟

秋もはや鴈おり揃ふ寒さ哉
   野坡

 藁を見てからかゝる屋普請
   許六

暮の月宿へはい(ひ)れば草臥て
   利牛


 元禄9年(1696年)、十丈は許六を訪ねる。『射水川』

 元禄9年(1696年)12月、『韻塞』(李由・許六共編)上巻。李由自序。千那跋。

 元禄11年(1698年)4月20日、支考は難波津を門出して長崎行脚。許六は句を詠んでいる。

   支考が長崎行脚を送る。

貫之も精進の友よ海松海雲(もづく)


 元禄11年(1698年)11月、『泊船集』(風国編)板行。許六は「此泊船手にとる物にあらず、学者偽書とすべし。」と『泊船集』を非難している。

 元禄11年(1698年)、『篇突』(許六・李由編)。

 元禄12年(1699年)、支考は彦根を訪れ許六・李由と歌仙。

      彦根

   うそつきの世の中になる牡丹哉
   許六

    小鮎の鮨の蓼にまたるゝ
   支考

   勝手むき若衆仕舞に拭たてゝ
   李由


 元禄14年(1701年)、支考は北陸行脚の途上、許六を訪ねている。『東西夜話』(支考編・許六校)。

 元禄15年(1702年)2月22日、浪化支考と共に都を離れ。23日、許六を訪ねる。

 元禄17年(1704年)3月、『藁人形』(陸夜編)刊。許六序。

 元禄17年(1704年)、『摩詰庵入日記』(雲鈴著)。許六跋。

 元禄17年(1704年)、『麻生』(范孚編)。田河吾仲序、菊阿仏跋。

 宝永元年(1704年)、『千句塚』(除風編)刊。許六序。自跋。

 宝永3年(1706年)、『風俗文選』(許六編)刊。

 宝永7年(1710年)、致仕して剃髪。菊阿と号す。

千那・木導・菊阿の三吟歌仙がある。

   不換三公此江山
 千那
月に雁前は小海老の堅田かな

 東に菊を植て見る山
   木導

新酒に新酢の札を張添て
   菊阿


正徳5年(1715年)8月26日、没。

『五老文集』(許六自筆遺稿)

 宝暦年間(1751〜1764)の始め頃、幾暁庵春波が九州行脚の折、許六の造った芭蕉像を笈に納めて小倉に持ってきた。

 天明6年(1786年)、高桑闌更は京都東山雙林寺に芭蕉堂を創立。

芭蕉堂


芭蕉堂に許六が刻んだ芭蕉の木像を安置する。

天保5年(1834年)、『五老井發句集』(山蔭編)刊。

北海道鷹栖町の丸山自然公園に許六の句碑がある。



十団子も小粒になりぬ秋の風

「五老井の跡」に許六の句碑がある。



水すしを尋ねてみれハ柳か那

愛知県犬山市の尾張冨士大宮浅間神社に許六の句碑がある。



苗代の水にちりうくさくらかな

許六の句

   住吉の浜に出て

青麦にしばらく曇る淡路哉

   朝とく鞠子の宿を出て

山芋も茂りてくらし宇津の山


鳫かねや翼にかけて比良横川


力相撲瘤の出ル時まけにけり


春なれや田の青海苔に啼蛙


はつ雪やおさまる江戸の人心


   郡内を過て

道はたにまゆほす嗅の暑かな


十團子も小粒になりぬ秋の風


春先は蛙となりて湯壺哉


陽炎や壁のぬれたる夜の雨


禅門の革足袋おろす十夜かな


名月や赤穂の汐くみいとまなみ


   木曾路にて

山吹も巴もいづる田植かな

信濃路や蠅にすはるゝ痩法師

五月雨にかゝるや木曾の半駄賃

名月や淺間が岳も壽なり

檜の香や木曾の旅宿の冬籠


名月や国侍の俄客

みそ塩をはなれきつてや秋の月


四五月のうなみさなみや蜀魂


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