俳 人
天野桃隣
伊賀上野の人。本名勘兵衛。通称藤太夫。太白堂。
天野藤太夫。太白堂・呉竹軒、後ハ桃翁ト云。本土伊賀上野、翁古朋友也。神田ニ居ス。享保四己亥十二月九日八十二歿。浅草光明寺葬。
元禄4年(1691年)9月22日、芭蕉は江戸へ旅立つ。
同年閏10月23日、芭蕉は新城在住の太田白雪に案内され、鳳来寺山に登山した。天野桃隣・各務支考、白雪の子桃先・桃後らがこれに従った。
鳳来寺仁王門
同年10月29日、芭蕉は3年ぶりで江戸に到着。桃隣は芭蕉に同伴して、初めて江戸に移住した。
されば師が東行の袂にすがり、はじめて富士の高きを驚き、むさしの広きをうかゞふ。
霜月はしめ粟津より東武に歸菴。(桃隣同行)。神も旅寝の吟此時なり。
元禄5年(1692年)、各務支考は奥羽行脚。桃隣は旅立つに当たり句を贈っている。
元禄5年(1692年)8月9日、許六は桃隣の紹介で芭蕉に入門。
同年12月20日、松山藩主松平貞直の藩医青地彫棠は芭蕉・其角・桃隣・黄山・銀杏を迎えて連句の会を催した。
壬申十二月廿日即興
|
|
打よりて花入探れんめつばき
| 芭蕉
|
|
降こむまゝのはつ雪の里
| 彫棠
|
|
月にたゝぬつまり肴を引かへて
| 晋子
|
|
羽織のよさに行を繕ふ
| 黄山
|
|
夕月の道ふさげ也かんな屑
| 桃隣
|
|
出代過て秋ぞせはしき
| 銀杏
|
桃隣はこの歌仙を懐紙に筆録し、その懐紙が彫棠から門人越智擲瓢に伝えられ、更にその子麦邑から孫の青梔に伝えられた。青梔は父麦邑の遺志を継いで、その懐紙を松山の石手寺境内に埋めて花入塚を建立。記念集『花入塚』を刊行した。
元禄7年(1694年)4月、芭蕉は桃隣の新居祝いに画讃の句を贈っている。
元禄7年(1694年)10月12日、芭蕉は大阪で亡くなる。10月25日、嵐雪は桃隣と共に江戸を出て義仲寺に向う。
元禄9年(1696年)、芭蕉三回忌にあたって『奥の細道』の跡をたどる。
元禄10年(1699年)8月、『陸奥鵆』(自序、素堂跋)
享保4年(1719年)12月9日、桃隣没。享年71歳。
宮城県白石市の甲冑堂に桃隣の句碑がある。
いくさめく二人のよめやはなあやめ
東京都新宿区の十二社熊野神社に桃隣の句碑がある。
白桃や雫も落ず水の色
福島県白河市の満願寺にある「おくのほそ道の山」の碑に桃隣の句が刻まれている。
奥の花や四月に咲くを関の山
桃隣の句
春の雨洲にながれ出る柳かな
百ヶ日
花鳥や絵毎にとはず物語
芭蕉菴のるす
主まつ春の用意やちり柳
なゝ草や次手に扣く鳥の骨
水鳥の巣もや引けん菖蒲草
雀五羽鳴て夜明の梅の花
増(憎)愛時々に變じ、眺望刻々にか
はる。
松嶋やいらぬ霞が立て來る
白桃や雫も落ず水の色
道くだり拾ひあつめて案山子哉
はつ雪や人のきげんは朝のうち
はつ雪や人の機嫌は朝のうち
深川の畠てたゝくなつ菜哉
俳 人に戻る