2010年長 野

巴淵〜許六の句碑〜
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木曽郡木曽町日義に巴淵がある。


巴淵


伝説に残る巴淵

木曽三十六景の一

歴史が漂うこの淵は、巴状にうずまき巴淵と名付けられました。 また、武勇に長けた麗将として有名な巴御前にちなんだ深淵でもあり、伝説には、この淵に住む龍神が木曽義仲の養父中原兼遠の娘として生れ、巴御前に化身して義仲の愛妾として、彼の生涯を守り続けたといわれています。 巴御前はここで水浴をし、泳いでは武技を練ったと言われています。巴淵のある山吹山一帯は、秋10月下旬には全山を紅葉が鮮やかに染め、春5月にはその名の通り山吹が咲き乱れます。岩をかみ巴状に蒼くうずまく淵と四季折々の花木の織りなす風情は一見に値するものがあります。

木曽町観光協会

許六の句碑


右に許六の句が刻まれている。

山吹も巴もいてゝ田うへ哉

『韻塞』(李由・許六共編)に収録されている句である。

 元禄6年(1693年)5月、許六は江戸から木曽路を通って彦根に帰った。

芭蕉は許六帰郷の折に餞別の句を贈っている。

   許六が木曾におもむく時

旅人のこゝろにも似よ椎の花

『續猿蓑』(沾圃編)

 明治24年(1891年)5月、正岡子規は木曽路の旅をする。

日照山徳音寺に行きて木曾宣公の碑の石摺一枚を求む。この前の淵を山吹が淵巴が淵と名づくとかや。福嶋をこよひの旅枕と定む。木曾第一の繁昌なりとぞ。


 明治42年(1909年)5月9日、河東碧梧桐は巴淵のことを書いている。

 山の下に巴が淵というのがある。義仲を慕うて身を投じたという口碑も、いずれは山吹のの花を見て、木曾のありし昔の春を想い出でたなどというのに因むのであろうが、却って山吹御前と言われた義仲の他の思い者の世に聞えぬのをいぶかしく思う。


 昭和14年(1939年)5月6日、種田山頭火は木曽福島に向かう途中で巴淵へ。

山吹橋巴ヶ渕、清冽閑寂。

沿道は山吹、連翹、李の花がめざましかつた、河鹿も鳴いてゐた。


義仲館に巴御前と義仲の像があった。


 久寿2年(1155年)8月、義仲が2才の時に父義賢(よしかね)が悪源太義平に討たれたが、斉藤実盛のはからいで義仲は母小枝御前とともに木曽に落ち、中原義遠の屋敷で生育した。

 寿永2年(1183年)、篠原の地(現在の加賀市篠原町付近)で樋口次郎兼光が討ち取った首を池で洗ってみると、それはまがいもなく、その昔義仲の命を助けた実盛の首であった。

樋口兼光は今井兼平の兄。

 貞享2年(1685年)、貝原益軒は木曾義仲のことを書いている。

宮の腰より一里下に上田と云所あり。兼平が父木曾の仲三兼遠が屋敷の跡あり。木曾義仲の父帯刀先生義賢、悪源太義平にころされし時、義仲二歳なりしを、母抱て信濃にくだり、木曾の仲三兼遠を頼しかば、兼遠養育してひとゝなりぬ。東鑑に、木曾乳母夫仲三權守兼遠とあり。


 享保2年(1802年)3月29日、太田南畝は木曾義仲のことを書いている。

関をこえて上田村にいたる。こゝに今井四郎兼平が父、木曾の仲三兼遠が屋敷の跡あり。道より左のかた也。木曾義仲の父帯刀先生義賢、悪源太義平にうたれし時、義仲二歳なりしを母抱て信濃に下り、仲三兼遠が養育にてひとゝなり給ひし事思ひ出て、里人にとふに、しかじかといふ。


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