ある人の説に、「狂句とおかれしは翁の謙辞なり。後に門弟子の、狂句の二字をとり捨て集などに出せしは面白き事なり」といへり。案るに此説しかりとしがたし。まづ句を作るに、人に対するにもあらで謙遜の詞をおくべき謂(イハレ)なし。是はその比の格調にして、此外にも、「御廟年を経て」「牡丹蘂(シベ)ふかく」「芭蕉野分して」「芋あらふ女」「あら何ともな」「猿をきく人」「晦日月なし」「風髭を吹いて」のたぐひあまたあり、此句も狂句の二字ありて尤も風味あり。門人などの師の句を没後みだりにあらため削らん事、甚いはれなし。文字あまりたりとて、たまたま此句のみに付て臆説をなすは心得がたし、外にも是等の体裁あるをしらぬ故にや。但シ竹斎は尾張の名古屋にありて後に江戸神田に住す。医を業とし狂歌をよくす。世に誰人の作にや『竹斎ものがたり』といふ草紙あり。
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瓢の銘
| 山素堂 |
一瓢重黛山(一瓢は黛山よりも重く)
自笑称箕山(自笑箕山と称す)
莫慣首陽餓(首陽の餓に慣ふことなかれ)
這中飯顆山(這の中に飯顆山)
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顔公の垣穂におへるかたみにもあらず、恵子がつたふ種にしもあらで、我にひとつのひさごあり。是をたくみにつけて花入るゝ器にせむとすれば、大にしてのりにあたらず。さゝえ(竹筒)に作りてさけをもらむとすればかたちみる所なし。あるひとのいはく、「草庵のいみじき糧入るべきものなり」と。まことによもぎのこゝろあるかな。やがてもちゐて隠士素翁に乞ふ(う)てこれが名を得さしむ。そのことばは右にしるす。其句みなやまをもて送らるゝがゆへ(ゑ)に四山とよぶ。中にも飯顆山は、老杜のすめる地にして李白がたはぶれの句あり。素翁りはく(李白)にかはりて、我貧をきよくせむとす。かつ、むなしきときはちりの器となれ。得る時は一壺も千金をいだきて黛山もかろしとせむことしかり。
ものひとつ瓢はかろきわが世かな
芭蕉桃青書
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古池や蛙とびこむ水のおと
| 芭蕉 |
ある人の説に、「池のふりたる形容はさもあるべし。されど古き池をおしつけて古池といはん事いかゞ」と。按るに、『筑波問荅(答)』の序に、「過にし春のころかとよ、ふる池の乱草をはらひて蛙楽(アガク)を愛する事ありき」と良基公あそばされしうへは難なかるべし。
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芭蕉深川の菴池魚の災にかゝりし後、しばらく甲斐の国に掛錫(ケンシヤク)して、六祖五平というものをあるじとす。六祖は彼ものゝあだ名なり。五平かつて禅法をふかく信じて、仏頂和尚に参学す。彼もの一文字だに知らず、故に人呼て六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしと見えたり。その後、其角が招きによりてふたゝび江戸へ立かへりて、
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ともかくもならでや雪のかれ尾花
| ばせを |
ときこえしはこの時の事なり。
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ばせを、昔常陸国本間氏に寄宿して医を学ぶ。其時の自筆の誓紙いまつたへて本間松江が家にあり。其文、
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相伝医術啓迪院一流ノ秘書・秘語、那ゾ豈漏レ佗乎。若シ於二違背一者、大小ノ神祇、別而生縁ノ氏神可レ蒙二御罰一者也。仍而起請文如レ件。
貞享三年丙寅四月十二日
物部道意
松尾桃青
本間道悦様
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友人幽嘯曰、「陸奥須賀川の相楽順蔵といへるは等躬が末なり。いまも躬が筆のもの多くあり。その中に、独吟の歌仙五巻を並べ書たるもの有。その第二巻目に、今の世「ばせを松島独吟」と称する松の花の発句の巻あり。芭蕉の独吟といひ伝へしこと日比疑ありしが、是にて躬が独吟なる事しられたり。」尚按るに、此句の詞書に「我ガ松嶋の松といふめるに云々」とあり。躬もまたみちのくの人なれば、我松島とはいへるならん。ばせをにおいては我の字穏ならず。
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惟然は法師なれば、ヰネンと呉音にとなへたる事とおぼえしに、
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秋はれたあら鬼つらの夕やな
| 惟然
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と即事にたはぶれしに、鬼つらとりあへず、
いぜんおじやつた時はまだ夏
と脇してたはぶれあひし事、『七車』にのせたり。鬼貫が名をいひ出てたはぶれしを、脇もまた其人の名にて附たれば、ヰゼンと唱し事しるべし。
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『風俗文選』に載たる「松島の賦」、こゝろみに『おくのはそみち』の文章と参考するに、ばせをの書る処を前後に錯綜して、しひて賦の体につゞりあらためたりと見ゆ。許六さしもの英才にて、しかもばせをの書るまゝながら、前後に引たがへてつゞりぬる故、語脉のつゞかざる所あり。学者よくこゝろを付て考ふべし。
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ちる花になむあみだ仏とゆふへ哉
『あら野集』に、守武が辞世とて載たり。其角が『雑談集』に、此句を論じて、「神職の辞世として、何ぞ此境をにらむべきや。たゞアゝと歎美しておどろきたる落花なるべし」といへり。此ごろ荒木田家の説を聞しに、彼『家記』ニ云、「守武は文明六年九月廿日、叙爵。同十九年二月廿日、任二禰宜一。天文十年四月廿三日、転二一座一。号二薗(園)田長官一。同八月八日卒。
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辞 世
あさがほにけふは見ゆらむ我世かな
また
神路山わがこしかたもゆくすゑも
みねの松かぜ峰のまつ風
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秋のくれ客か亭主か中柱
| 芭蕉 |
井伊家の邸に許六をたづねし時、許六たまたま家にあらず。依て彼が帰るを待うちの作なりとぞ。その中柱といふものは、今も猶井伊家にありといふ。
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常陸国小川の里松江が家に、芭蕉留錫のころ、常に食をすゝめたる古五器二具あり。文化壬申の年、日向国真彦といふ神職の人、その住る所の翁が岡といふに文明中に勧請せし翁大明神といふ有所祭猿田彦神その社に芭蕉翁を合せ祭ると云事にて、諸国の句を勧進せし頃、松江が家に宿して、此のあらましを語り出るに、主この人の志の深きにめでゝ右の五器の中、汁碗ひとつをおくれりとて来り示してこれをよろこぶ。はなはだ古雅なる器なれば左に図す。
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