芭蕉ゆかりの地
深川芭蕉庵
俳聖芭蕉は、杉山杉風(1647−1732)に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年(1680年)から元禄7年(1694年)大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な『奥の細道』等の紀行文を著した。 天和2年(1682年)12月28日、芭蕉庵焼失。翌年、芭蕉は都留郡谷村(現都留市)の高山麋塒(1649〜1718)を頼って逗留。 「八百屋お七の火事」である。ちなみに呉服店「越後屋」も天和の大火で焼けている。 |
天和3年(1683年)9月、山口素堂は新庵の建築を願って「芭蕉庵再建勧化簿」作成。 |
ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて あられきくやこの身はもとのふる柏 |
文鱗生、出山の御かたち(像)を送りけるを安置して |
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南もほとけ艸のうてなも涼しかれ |
真鍋儀十は俳人。高浜虚子に師事、「ホトトギス」同人。俳号は蟻十。芭蕉の研究家として知られ、そのコレクションは江東区芭蕉記念館に寄付されたそうだ。 |
同じ橋の北詰、松平遠州侯の庭中にありて、古池の形今猶存せりといふ。
延宝の末、桃青翁、伊賀国より始めて大江戸に来り、杉風が家に入り、後剃髪して素宣と改む。又杉風子より芭蕉庵の号を譲り請け、夫より後この地に庵を結び、泊船堂と号す。(杉風子、俗称を鯉屋藤左衛門といふ。江戸小田原町の魚牙(なや)子たりし頃の簀(いけす※竹冠+禦)やしきなり。後この業をもせざりしかば生洲に魚もなく、自から水面に水草覆ひしにより、古池の如くになりしゆゑに古池の口ずさみありしといへり。)
『江戸名所図会』(芭蕉庵の旧址) |
元禄元年(1688年)8月下旬、『笈の小文』・『更科紀行』の旅を終え、芭蕉は久しぶりに深川の芭蕉庵に戻る。 元禄2年(1689年)2月末、「奥の細道」の旅に先立って芭蕉庵を人に譲る。 |
はるけき旅寝の空をおもふにも、心に障らんものいかがと、まづ衣更着(きさらぎ)末草庵を人にゆづる。
安川落梧宛書簡 |
元禄4年(1691年)11月1日、江戸に帰る。 |
三秋を經て草庵に歸れば舊友門人日々に來りていかにと問へば答へ侍る |
兎も角もならでや雪の枯尾花 |
元禄5年(1692年)、第三次芭蕉庵新築。 元禄6年(1693年)、榎本其角は天野桃隣らと深川芭蕉庵の留守を訪れた。 |
元禄六酉仲秋深川芭蕉庵留守の戸に入て 生綿とる雨雲たちぬ生駒山 |
元禄7年(1694年)10月12日、芭蕉は大坂南御堂前花屋仁右衛門宅で死去。 元禄8年(1695年)、各務支考は深川芭蕉庵を訪れた。 |
むかし此叟の深川を出るとて、此草庵を俗なる人にゆづりて |
草の戸も住みかはる世や雛の家 |
今はまことに、すまずなりてかなし。 |
安永2年(1773年)に小林風徳が編集出版した『芭蕉文集』に掲載する図である。窓辺の机の上には筆硯と料紙が置かれ、頭巾を冠った芭蕉が片肘ついて句想を練っている。庭には芭蕉・竹・飛石・古池を描く。以後これが芭蕉庵図の1つのパターンとなる。絵の筆者は二世祇徳(ぎとく)で、この人は芭蕉を敬愛すること篤く、『句餞別』の編者でもある。 |
安永9年(1780年)4月13日、蝶夢は遠江守の屋敷に芭蕉庵の跡を訪ねている。 |
十三日、空の景色心もとなけれど、江戸橋より舟に乗て深河にいたり、しれる人々に別をいふ。同じ所に、遠江守と申御館の中に芭蕉庵の跡ありときゝ、門もりの翁に物とらせて言入るゝに、御館をあづかる武士も、さすがに情しらぬにはあらで立出てかたる。「此所中、むかしは杉風と言しものゝ別業なりし。其比芭蕉翁の住給ひて、人もかく呼びならはせしとぞ。あが国の御館となれゝど、仕ふる殿の昔忘れさせ給はで、<かの蛙飛込むとかありし池水も其世のまゝに、汀の草をもかなぐらでおくべし>と仰事ありて、其御いましめをまもりて、あらぬさまなれど、さる事しとふ輩ならんには」と案内せられけるに、かたりしにたがわず、水草しげりて、そこともしれぬうもれ水なりけり。貞享・元禄のありし世のさま思ひいでゝ、古池の水のこゝろいかんとぞ、 |
水くらし刈らぬ菖蒲の五六尺 |
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村雨やうき草の花のこぼす音 | 古静 |
俳誌『ホトトギス』明治42年1月号に所載の図である。中村不折は幕末慶応2年(1866年)生まれの書家・洋画家。本図は不折の祖父庚建(こうけん)の原画を模写したものであるという。従って本図の原画は19世紀初頭前後に描かれたものであろう。手前の土橋は、『芭蕉庵再興集』所載図の土橋と似たところがある。 ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。 たまたま大正6年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同10年東京府は常盤1丁目を旧跡に指定した。 |
昭和7年(1932年)4月18日、永井荷風は芭蕉庵を訪れている。 |
いつもの如く清洲橋をわたり、萬年橋北詰の小道に入り、柾木稻荷を尋ぬるに、震災後の新築にて石の鳥居も亦路のほとりに建てられたり。祠の裏大川の岸には水上警察署在り。此の小道は西元町なり柾木稻荷の筋向に芭蕉翁の小祠あり。芭蕉庵の由來及神社建立の主旨を書きたる高札を立てたり。 |
昭和40年(1965年)3月、山口誓子は芭蕉稲荷の句碑を訪ねている。 |
現在の防潮堤に登って見ると、隅田川は臭く、黒ペンキのように黒い。 句碑は昭和三十年建立。社会党の議員だった真鍋儀十が模写したのだ。模写だから「婦る池や蛙飛こ無」などと書いてある。
『句碑をたずねて』(奥の細道) |
昭和20年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和30年復旧に尽した。 しかし、当所が狭隘(きょうあい)であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。 昭和56年3月吉日
芭蕉遺蹟保存会 |
寛永21年(1644年)、芭蕉は伊賀上野赤坂町に誕生。平成6年(1994年)が芭蕉生誕350年に当たる。 |