曹洞宗安国寺は、足利尊氏・直義兄弟の発願で全国に建てられた寺の一つで、豊前安国寺と伝えられています。 当初、三本松(小倉北区古船場付近)にありましたが、慶長5年(1600年)細川忠興の小倉城築造の折、現在地に移りました。 当寺の第27代住職・玉水俊コ(※「コ」=「交」+「虎」)は、旧陸軍第十二師団軍医部長として明治32年6月から約3年間、小倉に在住した森鴎外と親交を結び、彼の作品「二人の友」や「独身」にも「安国寺さん」の名で登場しています。 庫裡の前には、元和8年(1622年)最上藩の内紛で細川家預かりとなった最上光直(墓碑には「捐舘 清雲院殿前甲州太守聖山壽賢大居士」と刻まれています)や寛文11年(1671年)伊達騒動に連座して小倉に配流中没した伊達宗興(事件の中心人物であった伊達宗勝の子。宗勝は伊達正宗の十男)、小倉藩の儒者篠原級長(しななが)(号は笠山)の墓があります。 また、寺には木造松尾芭蕉翁像、柳墳、三世幾暁庵春波や四世文藻舎春渚の墓などがあります。これらは、いずれも小倉北区古船場にあった芭蕉門下ゆかりの寺、知鏡庵(昭和12年に知鏡寺と改称)から昭和36年に移設されたものです。 芭蕉翁像は高さ25センチ程の坐像で、蕉門十哲の一人であった森川許六が芭蕉遺愛の桜を切って造ったものといわれ、宝暦年間(1751〜1764)の始めごろ、春波が九州行脚の折、笈(背に負う箱)におさめて持ってきたものです。 柳墳は、文政のころ(1818〜1830)芭蕉の肉筆の短冊「八九間空で雨降る柳かな」や遺品などを埋めて建てた塚です。
北九州市教育委員会 |
左側面に「正徳二造立甲戌今年十九年」、碑陰に「再興寛延庚午冬十月十二日」とある。 |
正徳2年(1712年)、芭蕉の十九回忌に「柳塚」建立。 |
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寛延3年(1750年)10月12日、「柳墳」再建。 |
西華房は各務支考。享保16年(1731年)2月7日、没。 |
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幾曉菴は各務支考の門人三世幾暁庵春波。別号雲蝶。安楽坊。 |
元文(1736−41)の初めから延享4年(1747年)まで11、2年の間、幾暁庵春波は九州一円を俳諧行脚。 |
四月廿四 日 夕方、そこらを散歩する、芭蕉柳塚といふのがあつた、折からの天神祭で、式三番叟を何十年ぶりかで見た、今夜はきつと少年の日の夢を見るだらう! ・晴れたり曇つたり籠の鳥 曇り日、珠数をつなぐ |