久保田万太郎ゆかりの地


久保田万太郎の句

『草の丈』

   上州磯部にて

温泉の町の磧に盡くる夜寒かな

河豚で死ぬことのうそでなき寒さかな

短日や國へみやげの泉岳寺

淺草の塔がみえねば枯野かな

竹馬やいろはにほへとちりぢりに

   大正十二年九月、淺草にて震災にあひたるあ
   と、本郷駒込の樓紅亭に立退き、半月あまり
   をすごす。諸事、夢のごとく去る。(二句)

秋風や水に落ちたる空のいろ

いたづらにあかざのびたり秋の風

   大正十二年十一月、日暮里渡邊町に住む。親
   子三人、水入らずにて、はじめてもちたる世
   帶なり。

味すぐるなまり豆腐や秋の風

   大正十五年六月、日暮里諏訪神社まへにうつる。この家
   崖の上にて、庭廣く見晴しきはめてよし。

いたづらに大沓脱や秋の暮

   人、大龍寺のかへりなりとて來る

うち晴れし淋しさみずや獺祭忌

   田 端

崖ぞひのふみかためたる道夜長

   昭和三年七月二十四日

芥川龍之介佛大暑かな

   小山内先生追悼公演會

しぐるゝや大講堂の赤煉瓦

   妻、熱海に病む

芒の穂海の濃青をふくみけり

   昭和十年十一月十六日、妻死去

來る花も來る花も菊のみぞれつゝ

   昭和十四年九月七日午後二時四十分、泉鏡花
   先生逝去せらる

番町の銀杏殘暑わすれめや

   上野清水堂にて(三句)

むさしのの寺の一ト間の桃青忌

子規にまなび蕪村にまなび桃青忌

一トむかしまへの弟子とや桃青忌

   八月四日夜、大仁ホテル志賀直哉氏あり、
   中川一政畫伯あり、安藤鶴夫君あり

つゝぬけにきこゆる聲や月の下

   三月三日、三田綱町にうつる

風立ちてくるわりなさや春の暮

   三月十日の空襲の夜、この世を去りたるおあ
   いさんのありし日のおもかげをしのぶ

花曇かるく一ぜん食べにけり

   五月二十四日早曉、空襲、わが家燒亡

みじか夜の劫火の末にあけにけり

   終 戦

何もかもあつけらかんと西日中

   八月二十日、燈火管制解除

涼しき灯すゞしけれども哀しき灯

『流寓抄』

   古奈“三養莊”にて(三句)

さゞなみをたゝみて水の澄みにけり

芒の穂うつすと水の澄みにけり

佇めば身にしむ水のひかりかな

   菊池寛、逝く。……告別式にて

花にまが間のある雨に濡れにけり

   光明寺の十夜法要は陰暦によらず、十月の半
   ばこれを修す。

柿の苗うる店ばかり十夜かな

   二十日、に着きて

ゆく春や阿漕ヶ浦の夕眺め

   二十五日、伊賀上野に入る。

ゆく春やみかけはたゞの田舎町

   芭蕉にゆかりあるところをみてまはる。

永き日やみのむし庵のわらぢ塚

   二十七日、バスにて宇治山田に入り、伊勢神
   に參拜

暮遅や木の間がくれの五十鈴川

   九月二十六日、十五夜、たまたま淺草にあり。

ふるさとの月のつゆけさ仰ぎけり

   六月某日、常磐ホテルにて(二句)

はや梅雨の曇りの不二をかくしけり

はや梅雨に入りし夜番の析(き)のひゞき

   昇仙峡

六月や椎茸煮出汁(だし)の御嶽蕎麥

   三月一日、久米正雄一周忌

人コ(にんとく)の梅咲きにけり三汀忌

   郡山に久米正雄の句碑除幕式に参列したる歸
   途、岩代熱海にて

鯉の巣に東風の波よせそめしかな

   神戸――小松島……

まづ船に旅の幸えし五月かな

   室戸岬にて(六句)

岩群れてひたすら群れて薄暑かな

薫風やいと大いなる岩一つ

薫風や岩にあづけし杖と笠

はまゆふのまだ咲かぬ風薫りけり

この町や水にこと缺きあやめ黄に

火蛾去れり岬ホテルの午前二時

   阿波は暮春、土佐は首夏……

暮春首夏まだげんげ田の殘りけり

   高松にて(二句)

志度寺へ三里ときゝしあざみかな

けふもまたなまじ天氣のあざみかな

   高知の宿にて

ゆく春やさゝやきかはす杖と笠

   京都にて

春雷やたどりつきたる京の宿

   鎌倉長谷觀音境内、大野万木翁句碑除幕式

人の世の梅雨をいとへと建ちし碑か

   十二月二十二日の夜、上野を發ち、北國路に
   むかふ。……“日本海の波”執筆のためなり。

ゆき年やこゝは越後の糸魚川

   糸魚川の西、青海町から越中の國境近くの市
   振村との間、四里ばかりの海岸を“親不知
   といふ。

鵜の岩に鵜のかげみえず冬の海

   象潟(二句)

ゆき逢ひし枯野乙女の何人目

夕みぞれ干滿珠寺のむかしかな

   秋田にむかふ途中

みぞるゝやたゞ一めんの日本海

   自動車にて本莊にむかふ。

山みゆるとき海みえず冬田かな

   秋田着

雪國に來て雪をみずクリスマス

   松根東洋城先生、日本藝術院に入る。

寒凪のたまたまかすみわたりけり

   浅草“駒形どぜう”主人に

神輿渡御待つどぜう汁すゝりけり

   湯島天神町といふところ、震災にも戰災にも
   逢はず、古き東京のおもかげをとゞむ。(二
   句)

みじか夜や焼けぬせうがの惣二階

さみだれや門をかまへず直ぐ格子

   二月四日、鐵砲洲稲荷にて“文藝春秋”句會
   の砌、大野万木翁、袍をまとひて年男をつと
   む。

烏帽子きて春寒眉の白きかな

   仙臺は

長茄子の味七夕もちかきかな

   青根温泉にて仙臺よりのもどり

あをねとは青き嶺の夏老いにけり

『流寓抄以後』

   永井荷風先生、逝く。……先生の若き日を語
   れとあり。

ボヘミアンネクタイ若葉さわやかに

   鰌をどぜうと書くは“駒形どぜう”の先代の
   はじめたるところによる。ひつきやうこれを
   もつて商標とはしたるなり。

どぜうやの大きな猪口や夏祭

   八月二十三日午前八時、羽田を發ち、新潟を
   經て佐渡におもむき、特別観光車といへるバ
   スにて島内を一巡、午後八時、羽田に帰着。

日歸りで佐渡をみて來し殘暑かな

   佐渡にて(三句)

秋風や尖閣灣の礁めぐり

秋風やいつの世よりの鬼太鼓

膳殘暑皿かずばかり竝びけり

   古 稀

すべては去りぬとしぐるゝ芝生みて眠る

   淺草傳法院

名園の春の霜とけかねしかな

   四月十六日正午、新宿發、上諏訪に向ふ。甲
   府をすぎてよりの車中にて

山國のしきりに咲ける櫻かな

   上諏訪“布半”旅館に一泊

ゆく春や雀かくれし樋の中

   高遠に向ふ

ゆく春や杖突峠なほ上り

   高遠にて(三句)

高遠の繪島の寺の櫻かな

蓮華寺の花の石段み上げけり

春蔭や三萬五千石最中

   十一月十三日、木下杢太郎忌、伊豆の伊東に
   その生家を訪ふ。

“米惣”の名のいまになほ日短き

   突然、吉井勇危篤の報に接す。

悴みてわかき灯ばかりおもふめる

   京都祇園建仁寺にて、吉井勇告別式

案のごとくしぐるゝ京となりにけり

   義仲寺(三句)
    ――“げにも所は、ながら山、田上山をか
    まへてさゞ波も寺前によせ、漕出る舟も觀
    念の跡をのこし、云々”と、其角の“芭蕉
    翁終焉記”にしるされたる芭蕉ゆかりのこ
    の寺も、いまは街道筋となり、はなはだふ
    ぜいに乏し。

義仲寺のいまはむかしの冬田かな

句碑ばかりおろかに群るゝ寒さかな

池寒く主(あるじ)いまなし無名庵

   滿月寺(二句)

短日の水のひかりや浮御堂

廣告のベンチも枯れし蘆もかな

   廣島三瀧觀音(二句)

こつねんと塔うかびたる霞

三瀧茶屋三瀧山莊霞かな

   芭蕉に“初雪や幸ひ庵にまかり在り”といふ
   句あり。おなじこゝろを初雪す

餅焦げる匂たまたまはつ雪す

   伏見醍醐寺への途上

竹の秋道山科に入りにけり

   醍醐寺にて

つきひぢの内外(うちと)の花のさかりかな

   仲秋名月の夜、たまたま淺草傳法院にあり
   (二句)

名月や傳法院の池のぬし

名月やあけはなちたる大障子

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

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