

| 初代 … 旧北陸道 |
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| 二代 … 天険開削道 |
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| 三代 … 天険トンネル |
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| 四代 … 北陸自動車道 |
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元禄2年(1689年)7月12日(陽暦8月26日)、芭蕉は旧北陸道の親不知子不知を越え、市振へ。 |
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今日は親しらず子しらず犬もどり駒返しなど云北国一の難所を越てつかれ侍れば、枕引よせて寝たるに、一間隔て面の方に若き女の声二人計ときこゆ。
『奥の細道』
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宝永6年(1709年)6月28日、各務支考は親しらす・子しらすを越えて糸魚川に赴いた。 |
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これよりあら波の磯をつたひて親しらす・子しらす・犬もとり・駒かへしなと世にしらぬ嶮難の地也、右は百尺の岩壁に苔の雫したゝり、左ハ万里の波濤をあツめて青天に雷をとゝろかす、その間に道ありといへとも女波・男波の隙をうかゝひて案内の人の尻につきてこなたの岩屈(窟)よりあなたの岩のはさまにけ入、かゝる時に親は子の行衛をしらす、子ハ親の跡をかれり見されはかくおそろしき名をや世に伝へけむ、
『越の名残』(支考編)
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明和元年(1764年)、内山逸峰は親しらずで歌を詠んでいる。 |
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越後国親しらずといふ磯を過るとて、 いひそめし人やとがめんこの磯の親しらずとは罪ふかき名を |
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明和7年(1770年)夏、高桑闌更は金沢を去り、越後へ。 |
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親しらず 親しらば通さじ夏の海ながら |
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明和8年(1771年)、加舎白雄は「北越紀行」の旅で親しらずを越える。 |
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こしちの文にきこゆ 蔓艸すらちきれちきれによする潮は丈にあまり岩まに身をひそむる我人のこゝろ轎夫執鞭のちからもつきて波の行かひ謀るそつらし |
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海松房をとつとあひけり親しらす |
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天明2年(1782年)5月末、田上菊舎は市振から親しらずへ。 |
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東雲頃、市振へ船揚りして、問屋にしばらくやすらひ、此所より殊外難所なれば、馬にて行くなど、兼て連中もすゝめられしゆへ、親しらず、子しらず、馬返し、此日の北国一番の難所なり。 しる知らぬ人皆恋し親しらず
『笈の塵』
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文政9年(1826年)、十返舎一九は越中・加賀へ旅をしたようである。 |
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たび人「こゝは、わるくすると、となみにまきこまれるところたが、ひよつと、わしがまきこまれたら、ふたゝびかゝしゆのかほをみることはならぬ、とかなしかつたが、まづまづとほりぬけてあんとした。すでのこと、おやしらずにならうとした。やれやれ、あぶないこと、あぶないこと。
「越中立山参詣記行」
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明治16年(1890年)、如砥如矢(とのごとくやのごとし)の国道開削。 明治27年(1901年)7月、W.ウェストンは親不知子不知を訪れた。 |

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中野重治
ここにあるのは荒れはてた細ながい磯だ うねりは遙かな沖なかに湧いて よりあいながら寄せてくる そしてここの渚に さびしい声をあげ 秋の姿でたおれかかる そのひびきは奥ぶかく せまつた山の根にかなしく反響する がんじような汽車さえもためらいがちに しぶきは窓がらすに霧のようにもまつわつてくる ああ 越後のくに 親しらず市振の海岸 ひるがえる白浪のひまに 旅の心はひえびえとしめりをおびてくるのだ |

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昭和28年(1953年)12月22日、久保田万太郎は急行“日本海號”で秋田に向かった。 |
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十二月二十二日の夜、上野を發ち、北國路に むかふ。……“日本海の波”執筆のためなり。 ゆき年やこゝは越後の糸魚川 糸魚川の西、青海町から越中の國境近くの市 振村との間、四里ばかりの海岸を“親不知” といふ。 鵜の岩に鵜のかげみえず冬の海
『流寓抄』 |
| 昭和34年(1959年)、加藤楸邨は親不知を訪れた。 |
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親不知 親不知鵜に黄塵を吹おろす
『まぼろしの鹿』 |
| 昭和40年(1965年)、山口誓子は親不知を訪れている。 |
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親不知 親不知雪嶺下り來てここに落つ
『一隅』
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昭和41年(1966年)、天険トンネル完成。 昭和63年(1988年)7月、北陸自動車道全線開通。 |
