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安永元年(1772年)、加舎白雄は松坂から江戸に帰る途中で阿漕浦を訪れている。 |
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阿漕の浦淋しくも杖引き歩行に窮していつはる昔今の人心、ひくてのあとはかたり草にのみ。何がし平治が塚は一株の榎の元也ときゝて、 罪ふかき男が塚ようらの秋 |

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阿漕塚の伝説として広くしられております孝子阿漕平治の物語は、昔阿漕浦が神宮御用の禁漁区でありました頃、平治と云う親孝行な漁夫が阿漕浦の矢柄(やがら)と云う魚が母の病気の妙薬と聞いて、禁制を犯して夜な夜な矢柄をとり母に食べさせて病気の治っていくのをたのしみにして居りましたが、或る風の強い日に平治と印のある笠を浜に置き忘れた為に捕らえられ、法により簀巻にされて阿漕浦の沖深く沈められたのが8月16日(旧暦7月16日)でありました。その後、この恨みが沖で網を引く音となって聞こえるので、人々はその霊を慰め平治の孝行を讃えて塚を建て、その名を阿漕塚として毎年命日には盛大な供養と盆おどりを行うようになったと云うものであります。この塚は天明2年(1782年)綿内町吉朗兵衛外2名の発起により建てられたものであります。 芭蕉の句碑 「月の夜の何を阿古木に啼く千鳥」 は俳人村田雁路建立によるものであります。
津市観光協会 |

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昭和3年(1928年)2月12日、荻原井泉水は阿漕浦で「芭蕉」の句碑を見ている。 |
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阿漕浦へも出て見た。尤も、阿漕塚と並んで建ててある、とても大きな句碑―― 月の夜の何を阿漕に鳴千鳥 芭蕉翁 裏に「此地大樂山上宮寺舊跡也、碑面東都雪中菴完來所書」云々とあるこの句は恐らく芭蕉の作ではあるまい。
『随筆芭蕉』(「八九間の巻」その他) |
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昭和25年(1950年)4月24日、久保田万太郎は阿漕浦を訪れている。 |
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二十日、津に着きて ゆく春や阿漕ヶ浦の夕眺め
『流寓抄』 |

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あらさむし阿漕阿漕と啼鴎 |
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阿漕が浦にて 月に猶哀あこぎが海の底 |

