昭和5年(1930年)、富安風生は昇仙峡を訪れている。 |
昇仙峡 二句 岩の上に傘を杖つく紅葉かな 紅葉溪月をかかげて暗きかな
『草の花』 |
昭和8年(1933年)10月21日、与謝野寛・晶子夫妻は昇仙峡を訪れている。 |
路高し雑木を隔て下に見ゆ御嶽の渓の羅漢寺の橋 |
花崗岩が風化水食をうけてできたもので、急峻で直立約180メートルあり、この峡中奇勝の最たるものである。この岩頭に澤庵禅師の弟子覚円が座禅を組んだといわれ、覚円峰と呼ばれている。
甲府市 |
雲飛ぶや天馳使(あまはせづかひ) が種置ける覚圓峰の岩肩の松 |
『馬酔木』(明治39年2月15日)「御嶽乃歌會」に「明治三十九年一月、此の重々しき新年の初頭、明けて七日といふ日を以て、吾々は甲州御嶽の峡中に於て歌會を開けり、」とある。 |
川なみがあらふ岩よりたかければ霧の拭へり覺圓峰
「いぬあじさゐ」 |
ことごとく空に入りたる岩山を見上ぐる渓の路は三尺
『与謝野寛遺稿歌集』 |
石門と人うぃしふれどたそがれて渓に思ひぬ雲の一つと
『与謝野寛遺稿歌集』 |
明治42年(1909年)4月25日、河東碧梧桐は荻原井泉水・大須賀乙字らと共に昇仙峡を訪れた。 |
四月二十五日。晴。 全長一里に亘る昇仙橋の気色は、序破急の順序の如何にも整然たるものであると思う。鷲巣岩の序に始まって、覚円峰の破に及び、光景次第に急を告げて、終に仙娥滝の奇を現出する。脇僧と老翁の対立、ついに獅子の舞い込みに終るが如くである。仙娥滝は一天斧を加えた如き巨岩の狭窄の間を三段に落る。無形の漏斗に絞られた水は、ただ虎口を逃れた様に沫(しぶき)と飛び霧と散ずる。そうして、その水を圧した岩の一方の鑿壁は、巍々として蒼穹を摩して立つ。また一奇瀑たるを失わぬ。 |
岩を割く樹もある宮居躑躅かな 昇仙橋即詠の内一句 滝に景は尽きたれど躑躅奥ありて |
渓の路仙娥の滝にきはまらず亭の待つありそのうへの山
『与謝野寛遺稿歌集』 |
地殻の断層によってできた。高さ30mの壮麗な滝は新緑から紅葉、雪景色と四季にその美しさを装います。 |
大槻の枯枝の上ゆ冬の日の夕ぐれさやにたぎつ大瀧 |
昭和14年(1939年)、水原秋桜子は昇仙峡を訪れている。 |
昇仙峡 岨に生ひ秋渓(しゅうけい)に伏すも松ばかり 秋山(しゅうざん)はめぐり幾瀬のこもり鳴る 瀧津瀬にさしいでし松の秋日和 鶺鴒のひるがへり入る松青し 櫨紅葉激湍(げきたん)左右に落つるところ 懸巣鳴き渓声道をやゝ離る 紅葉舞ひ仔馬が炭を負ひくだる
『蘆刈』 |
昭和27年(1952年)6月、久保田万太郎は湯村温泉から昇仙峡を訪れる。 |
昇仙峡 六月や椎茸煮出汁(だし)の御嶽蕎麥
『流寓抄』 |