下 町中央区
indexにもどる

築地本願寺〜芭蕉の句碑〜

築地本願寺(HP)に芭蕉の句碑があるというので、行ってみた。


築地本願寺


正式には「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」。

元和3年(1617年)、西本願寺の別院として横山町に建立。

明暦3年(1657年)、振袖火事で焼失。

延宝7年(1679年)、築地に再建。

大正12年(1923年)、関東大震災で崩壊。

昭和9年(1934年)、現在の古代インド仏教様式の建物に再建。

築地本願寺の境内左側に芭蕉の句碑があった。


春もやゝ気色とゝのふ月と梅

説明は何もなかった。

出典は『続猿蓑』(沾圃編)。

元禄6年(1693年)春の句。

九條武子の歌碑があった。


おほいなるものゝちからにひかれゆくわかあしあとのおほつかなしや

 明治20年(1887年)10月20日、九条武子は本願寺第21代門主大谷光尊(明如上人)の第6子として生まれる。22歳の時、男爵九條良致様と結婚。佐々木信綱に和歌を学ぶ。昭和3年(1928年)2月7日、42歳で亡くなった。

墓所は築地本願寺和田堀廟所。2月7日は如月忌。

   九條武子の墓

木芽垣女人の墓の掃かれあり

『草雲雀』(「鶏 頭」より)

酒井抱一の墓もあった。

酒井抱一墓

 酒井抱一(1762〜1828)は播磨国(兵庫県)姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の次男として江戸に生まれ育ちました。寛政9年(1797年)、江戸下向中の京都西本願寺文如上人の弟子として出家し、等覚院文詮暉真と称し、抱一と号しました。

 画筆に秀で、茶道・俳諧・狂歌等にも長じ、文人墨客とも交わりを深めた風雅の人でした。画技は狩野・土佐・円山等の諸派や浮世絵に通じていました。尾形光琳の画風に傾倒し、文化12年(1815年)光琳の百回忌を営み、『光琳百図』などを出版しました。また、その画技をおさめて、『四季花鳥図屏風』『夏秋草図屏風』などを残しています。

 門人には鈴木其一、池田孤村、田中抱二などがおり、抱一は京都の華麗な装飾画法である琳派を江戸の地にふさわしい粋で瀟洒な江戸琳派として完成させました。文政11年(1828年)11月、根岸(現台東区)の雨華庵で没し、翌月築地本願寺に葬られました。

中央区教育委員会

 昭和11年(1936年)4月26日、種田山頭火は築地本願寺に参拝している。

   四月廿六日 晴。

 早く起きて、梅軒・桃月・路耕の三君と共に六時の汽車で東京へ、今日は層雲記念大会である。

 一天雲なし、ほがらかな日である。

 九時着、孤独な散歩者、乞食坊主、築地本願寺参拝。


 昭和40年(1965年)6月26日、高野素十高野素十は築地本願寺で小春会。

   同二十六日 築地本願寺 小春会

一回向又一回向夏の寺

『芹』

法重寺へ。

下 町中央区〜に戻る