下 町荒川区
indexにもどる

浄閑寺〜永井荷風〜

東京さくらトラム(都電荒川線)三ノ輪橋駅下車。

音無川と日本堤

 音無川は王子で石神井川からわかれている。その清流は田端・日暮里・金杉を流れ、三ノ輪橋をくぐり、浄閑寺の西側にそって、ここから山谷堀をへて隅田川にそそいでいる。今は暗渠になっているが、明治のおわりまで灌漑用水に使われていた。

 音無川にそって、三ノ輪から聖天町(現浅草七丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。安藤広重の『名所江戸百景』に描かれ、新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。浄閑寺前の三叉路の最も南寄り道路がその名残である。

荒川区教育委員会

荒川区南千住に浄閑寺(HP)がある。


投込寺(浄閑寺)

 浄閑寺は浄土宗の寺院で、通称「投込寺」と呼ばれ、安政2年(1855年)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に「生まれては苦界、死しては淨閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。

 壇徒の他に、遊女やその子供の名前を記した、寛保3年(1743年)から大正15年(1926年)にいたる、十冊の過去帳が現存する。

 遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。

荒川区教育委員会

昭和12年(1937年)6月22日、永井荷風は浄閑寺を訪れた。

掛茶屋の老婆に淨閑寺の所在を問ひ、鐵道線路下の道路に出るに、大谷石の塀を圍らしたる寺即是なり。門を見るに庇の下雨風に洗はれざるあたりに朱塗の色の殘りたるに、三十餘年むかしの記憶は忽ち呼返されたり。土手を下り小流に沿ひて歩みしむかしこの寺の門は赤く塗られたるなり。今門の右側にはこの寺にて開ける幼稚園あり。セメントの建物なり。門内に新比翼塚あり。本堂砌の左方に角海老若紫之墓あり。

  若紫恚L

女子姓は勝田。名はのふ子。浪華の人。若紫は遊君の號なり。明治三十一年始めて新吉原角海老樓に身を沈む。樓内一の遊妓にて其心も人も優にやさしく全盛双ひなかりしが、不孝にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹り、廿二歳を一期として非業の死を遂げたるは、哀れにも亦悼ましし。そが亡骸を此地に埋む。法名紫雲清蓮信女といふ。茲に有志をしてせめては幽魂を慰めはやと石に刻み若紫怩ニ名け永く後世を吊ふことゝ為しぬ。噫。

  明治卅六年十月十一日

    七七正當之日            佐竹永陵誌

又秋巖原先生之墓。明治十年丁丑二月十日歿。嗣子原乙彦受業門人中建之。ときざみし石あり。


新比翼塚


萩原秋巌先生の墓


三遊亭歌笑塚


実篤書

古よりの言の葉に、山紫水明の地、必ず偉人を生じるとかや。アアされどわれ未だ偉人の部類に属することかなわず。若き落語家歌笑をはぐくみし故郷は南奥多摩絶景の地なり

 歌笑純情詩集より

永井荷風文学碑


今の世のわかい人々
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の芸術を。
われは明治の兒ならずや。
その文化歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり
團菊はしおれて櫻痴は散りにき。
一葉落ちて紅葉は枯れ
緑雨の聲も亦絶えたりき。
圓朝も去れり紫蝶も去れり。
わが感激の泉とくに枯れたり。
われは明治の兒なりけり。
或年大地俄にゆらめき
火は都を燒きぬ。
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。
江戸文化の名殘烟となりぬ。
明治の文化また灰となりぬ。
今の世のわかき人々
我にな語りそ今の世と
また来む時代の藝術を。
くもりし眼鏡をふくとても
われ今何をか見得べき。
われは明治の兒ならずや。
去りし明治の兒ならずや。

「震災」「偏奇館吟章」より

昭和38年(1963年)4月30日、荷風死去四周年の命日に建立。

明治・大正・昭和三代にわたり詩人・小説・文明批評家として荷風永井壯吉が日本藝林遺した業績は故人歿後益々光を加へその高風亦やうやく弘く世人の仰ぐところとなつた。谷崎潤一郎を初めとする吾等後輩四十二人故人追慕の情に堪へず故人が「娼妓の墓亂れ倒れ」(故人の昭和十二年六月二十二日の日記中の言葉)てゐるのを悦んで屡々杖を曳いたこの境内を選び故人ゆかりの品を埋めて荷風碑を建てた

荷風花畳型筆塚


花又花酔句壁


生れては
  苦 界
死しては
  淨閑寺

昭和38年(1963年)11月、川柳人クラブ・横浜川柳懇話會建立。

下 町荒川区〜に戻る