下 町荒 川
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石浜神社〜都鳥の碑〜

東白鬚公園から白鬚橋を渡る。


白鬚橋を渡ると明治通りの北が荒川区、南は台東区。

橋場にあり。石浜神明とも、(或人の説に、この地に神明宮ある故に、上古(むかし)伊勢浜と唱へしと云々。)或いは俗に、橋場神明とも号(なづ)く。祭神伊勢に同じく内外両皇太神宮を斎(いつ)きまつる。社伝に云(いは)く、人皇四十五代聖武天皇の御宇、神亀元年甲子九月十一日鎮坐と云々。

『江戸名所図会』(朝日神明宮)

荒川区に石浜神社HP)がある。


聖武天皇の神亀元年(724年)創祀。

祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と豊受姫神(とようけひめのかみ)

 天照大御神(あまてらすおおみかみ)は伊勢神宮内宮の祭神、豊受姫神(とようけひめのかみ)は外宮の祭神。

伊勢参宮の代わりに石浜神社に詣でたそうだ。

江戸時代の石浜神社


文治5年(1189年)、源頼朝は奥州征討に際して社殿を寄進したという。

境内に亀田鵬斎の隅田川詩碑、「伊勢物語」の都鳥の碑がある。


左が都鳥の碑で、右が亀田鵬斎の詩碑らしい。

 亀田鵬斎(1752−1826)は江戸後期の儒者。江戸神田生まれ。書を三井親和に、儒学を井上金峨に学ぶ。下町の文人儒者として、経書を講じ多くの書・詩文を作った。著「論語撮解」「善身堂詩鈔」など。

都鳥の碑は文化2年(1805年)建立だそうだ。

 さるおりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなん宮こ鳥」といふを聞きて、名にし負はばいざ事問はむ宮こ鳥わが思ふ人はありやなしやと、とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

文化12年(1815年)10月20日、小林一茶は石浜神社を訪れている。

   廿 大晴 松戸大庄訪 石浜社ヨリ真先(崎)太神宮

明神に(は)(ふ)り出された霰哉

『七番日記』(文化12年10月)

 真先(崎)太神宮は真崎稲荷神社のこと。天文年間(1532〜1554)石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝えられているそうだ。大正15年(1926年)、石浜神社に併合された。

 昭和10年(1935年)8月6日、永井荷風は石浜神社を訪れた。

二三町にして白髯橋の袂に至る。其形永代橋に似たる鐵橋なり。橋をわたりて橋場の岸に至るに岸の上に宏大なる石炭物揚機械屹立し、工場の低き烟突盛に煤烟を吐けり。物揚機の鐵骨のかげに眞崎稻荷の石燈籠と石濱神社の鳥居の立ちたるさま見るも哀れなり。水際の石燈籠には安永八己亥年五月吉日永代常夜燈と刻したる文字未磨滅せず。石濱神社の鳥居には鳳鳴卿(成島道筑)の書を刻したり。眞崎稻荷の祠と休茶屋の小家とは猶殘りてあり。されど二十餘年前余が歸朝の當時折々井上唖々子と相携へて散策せし時の幽雅なる風景は全く其跡なし。其頃稻荷の祠の裏手より石濱明神宮の境内に至るあたりには杉の大木多く梅花馥郁たるを見しこともありき。今は一株の樹木も無く小徑を隔てたる。工場の石炭二三町にわたりて山の如く積上げられたり。タンクの如きものも聳えたれば思ふに瓦斯會社なるべし。岸邊には汚くして大きなる達磨船幾艘となく繋がれ、裸体の人夫の徘徊するを見る。


 昭和12年(1937年)6月15日、永井荷風は真崎稲荷を訪れた。

七時頃樓を下るに空くもりて風凉しければ、大門前よりバスに乘り白髯橋に至る。早朝の川景色を眺めんとてなり。橋の兩岸には工塲多く煤烟濛々たり。瓦斯タンク裏の眞崎稻荷に賽す。稻荷の社殿は石濱神明宮の境内に在り。恰も祭禮の當日にて若者神輿をかつぎ出し、神官は裝束きて白馬に跨り白丁を從へて境内を出でむとするところ。


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