2004年下 町

白鬚橋〜橋場の渡し〜
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東白鬚公園から白鬚橋を渡る。


白鬚橋


リバーサイド隅田セントラルタワーが見える。

橋場の渡し

 対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約160メートルの渡しで、「白鬚の渡し」ともいわれていた。

 『江戸名所図会』によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしていない。

 大正3年(1914年)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。

荒川区教育委員会

現在の橋は昭和6年(1931年)に完成したもの。

 元禄14年(1701年)、稲津祇空は江戸に移住、対岸の庵崎に有無庵を構えたようだ。

六とせ住なれし月影のさすや庵崎の有無庵も、さハる事ありて引こほち、雑具、竹樹やうのもの小舟一そうにのせ、この川むかひにかゝるしるへある橋場といふ所へうつしぬ。

   なかるゝやこれも世わたる橋場海苔


 文化5年(1808年)3月20日、小林一茶は待乳山から橋場の渡しにやってきた。

 橋場の渡りにいたる。山を押出したるやうなもの有。是おほやけの御船といふ。随斎見残されし木陰と見へ(え)て、淋しげなる女と清右衛門といへる人と、から破籠(わりご)など守りてありけるに、おなじく笠敷きて、

ぼた餅や迹の祭りに桜ちる

咲花に迹の祭の木陰哉

『花見の記』

 「おほやけの御船」は幕府の御用船「天地丸」。「天地丸」は寛永7年(1630)、3代将軍家光の時代に建造され、幕末までの230年以上の間、将軍の御座船であった。

 文化8年(1811年)閏2月29日、一茶は角田堤に天地丸を見に行った。

 閏二月廿九日といふ日、雨漸(やうやう)(お)こたりければ、朝とく[頭]陀袋首にかけて足やいて角田堤にかゝる。すでに東はほのぼのしらみたれど、小藪小家はいまだ闇かりき。しかるに近々ならせ給ふにや、川の方幽に天地丸赤々とたゞよひ、田中は新に道を作り、溝川ことごとく板をわたして、おのおの御遊をまつと見へ(え)たり。まことに心なき草木も風に伏して、目出度御代をあふぐとも覚へ(え)侍る。

五百崎(いほざき)や御舟をがんで帰る雁

『七番日記』(文化8年正月)

「帰る雁」は春の季語。

『我春集』に同様の記述がある。

石浜神社へ。

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