2022年東 京

大倉集古館〜大倉鶴彦翁像〜

港区虎ノ門に大倉集古館(HP)がある。

 天保8年(1837年)9月24日、大倉喜八郎は越後国蒲原郡新発田町(現:新潟県新発田市)の下町に生まれる。号は鶴彦。

 慶応3年(1867年)、伊東忠太は米沢に生まれる。

 明治元年(1868年)、大倉喜八郎は有栖川宮熾仁親王御用達となり、奥州征討軍の輜重にあたる。

 明治5年(1872年)7月4日、民間人としては初の欧米経済事情の視察に出発。

 明治10年(1877年)7月28日、武石弘三郎は新潟県南蒲原郡中之島村の庄屋の家に生まれる。

 明治15年(1882年)6月16日、大倉喜七郎生まれる。

 明治26年(1893年)、大倉土木組(現:大成建設)を設立。

 明治33年(1900年)、大倉喜八郎還暦銀婚祝賀式の記念事業として大倉商業学校(現:東京経済大学)を創設。

大倉鶴彦翁像


大正2年(1913年)、建立。武石弘三郎作。

 大正2年(1913年)、武石弘三郎は鍋島直正公像制作。

 大正6年(1917年)8月、大倉集古館開館。

 大正12年(1923年)、大倉喜八郎は初代帝国ホテル社長に就任。

 大正12年(1923年)、関東大震災によって展示館と一部の展示品を失う。

 大正13年(1924年)9月24日、大倉喜八郎米寿記念として『狂歌鶴彦集』を刊行。序文は幸田露伴

 昭和2年(1927年)1月5日、大倉喜八郎隠居、嗣子喜七郎が家督を継承した。

 昭和2年(1927年)、伊東忠太の設計と大成土木(現:大成建設)による施工で大倉集古館再建、翌年再開館した。

大倉集古館


 昭和3年(1928年)4月22日、大倉喜八郎は92歳で死去。

 昭和5年(1930年)、護国寺に墓碑建立。設計は伊東忠太。

同行の諸子とわかれ歩みて靈南阪を上るに米國大使館塀外に數名の兵あり。人を誰何す。富豪三上の門内に兵士また數名休息するを見たり。

『斷腸亭日乘』(昭和11年2月27日)

 昭和12年(1937年)、大倉喜七郎は赤倉観光ホテル開業。

 昭和18年(1943年)、伊東忠太は建築界で初めて文化勲章を受章。

 昭和19年(1944年)、鍋島直正公像は戦時下の金属供出で撤去された。

 昭和29年(1954年)4月7日、伊東忠太逝去。享年87。

 昭和37年(1962年)5月20日、ホテルオークラ開業。

 昭和38年(1963年)5月11日、武石弘三郎没。

オークラ庭園の霊南坂沿いに大倉喜八郎の歌碑がある。


渡り来し浮世の橋のあとみれば命にかけてあやふかりけり

 昭和37年(1962年)11月、大倉喜八郎の歌碑建立。

 昭和38年(1963年)2月2日、大倉喜七郎は80歳で没。

 平成10年(1998年)、大倉集古館は国の登録有形文化財に登録された。

 平成27年(2015年)8月31日、ホテルオークラ東京の本館を閉館。

 令和元年(2019年)9月12日、「The Okura Tokyo」として再開業。大倉集古館リニューアルオープン。

大倉集古館テラス


プレステージタワーロビー


廊 下


薩摩切子


東京タワーが見えた。


夜の東京タワー


江戸見坂に「東京経済大学発祥の地」の碑があった。


1900年 この地に大倉商業学校開校
1920年 大倉高等商業学校となる
1945年 戦災により校舎焼失
1946年 国分寺市(当時国分寺町)へ移転
1949年 東京経済大学となる

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