寛永十年尾州亜相公(義直郷)林家別荘の地に(今東叡山にある所の山王の社は、昔聖堂ありし地にして、林家別荘の旧地なり。)一廈(いつか)を経営あつて、聖堂ならびに願曾思孟の像を置きて、先聖殿と号け給ひしに、その後回禄の災(わざはひ)に罹(かか)れり。遂に元禄四年台命あつて今の地に遷させられ、御造営有りしより己隆(このかた)、春秋二度の釈奠(しやくてん)怠ることなし。公はさらなり。国々の列侯より献備の品ありて、いと厳重に執り行はる。儒宗林祭酒世々これを司る。本邦第一の学校にして実に東都の一盛典なり。(寛政の今御造営ありて結構昔に倍せり。)釈奠二月八日上(かみ)の丁(ひのと)の日に行はる。この日宗六君子の画像を掛けらる。従祀(程明道・程伊川・邵(せう)康節・張横渠・周茂叔・朱文公)
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仰高門

入口に文部省の「説明」が書いてあった。
寛永9年(1632年)、尾張藩主徳川義直林羅山をして上野忍ケ岡に先聖殿を造營せしめしに始まる。ひの回禄(火災)の災に罹るや、元禄3年(1630年)、将軍綱吉之を今の地に移して、大成殿と稱せり。後、寛政11年(1799年)大成殿及び・杏壇・入徳・仰高諸門を再建し、明治維新の際、大學を此地に置くに及び、一旦孔子以下の諸像を撤去せしも、後舊(もと)にふくせり。
建造物は暫く東京博物館の一部に充てたりしが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の為、入徳門・水屋等を除くの外、悉く焼亡せしを昭和10年(1935年)4月4日鐵筋混凝立(コンクリート)構造に依りて原型に復せり。
昭和11年3月
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文部省
戦前の「説明」だけに、文語である。
孔子像

入徳門

入徳門は震災も戦災を免れたようだ。
杏壇門

大成殿

健康太極拳をやっていた。
何だか日本ではないようだった。
大成殿に「斯文会」の説明が書いてあった。
湯島聖堂は将軍徳川綱吉が元禄3年(約300年前)に建立した孔子を祭る廟である。
江戸時代に3度火災に罹り、大正大震災にも灰燼に帰したが(但し入徳門を除く)、昭和10年舊時の規模によって復興し、今時大戦には幸に厄を免がれ、今日に及んだ。
孔子像(明末の朱舜水が水戸光圀の為に亡命の時携へて来て、後帝室御物となり、聖堂復興の時貸しされた。)の左右に四配(顔淵・曽子・子思・孟子)十哲(孔子の主な弟子十人)の神位がある。
江戸時代には昌平坂學問所(今の東京大學の前身)が併設されてゐた。
昭和50年3月 財団法人 斯文会
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元禄11年(1698年)、岩田涼莵は湯島聖堂を訪れているようである。
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大成殿
聖堂の庭に詩人や今日の月
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寛政3年(1791年)4月10日、小林一茶は湯島聖堂の前から本郷を通り、故郷に向かう。
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十日、晴 大聖殿の前より本郷にかゝる。是故郷へ行道の入口也。前途百万歩胸につかへて、とある木陰に休む。
戸田の渡りを越へて、わらび駅に入れば、薄々と日は暮れぬ。
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寛政6年(1794年)、太田南畝は湯島聖堂の学問吟味に合格。
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弘化4年(1847年)、榎本武揚は昌平坂学問所(昌平黌)に学ぶ。
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明治31年(1898年)、正岡子規は湯島聖堂を句に詠んでいる。
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聖堂やひつそりとして鷦鷯
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鷦鷯(みそさざい)は冬の季語。
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