赤穂四十七の一人大高源吾子葉は俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛木淨とは其角の門下として俳界の友でありました。元禄十五年十二月十四日討入本懐を遂げた義士達が永代橋へ差し掛るや、あたかも當所乳熊屋味噌店上棟の日に当り、作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を犒らったのであります。大高源五は棟木に由来を認め、又看板を書き殘し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。
ちくま味噌十六代 竹口作兵衛識 |
元禄15年(1698年)、幕府の命によって「深川の渡し」にかわる木橋が架けられた。永代橋の歴史はここに始まる。享保4年(1719年)大破の折には一旦廃橋と決められたものの、両岸住民の熱意がみのって民間維持の橋として再建し、以後、公用橋となって文明開化の時代をむかえる。明治30年(1897年)、鉄橋に姿を改めた。永代橋はもとの橋が約150m下流の現在の位置に移り、 関東大震災により大破。 今の橋は詩人として知られた木下杢太郎の兄、太田円三の設計。大正15年(1926年)完成したものである。 |
安永5年(1776年)に日本最初の電気学者としてエレキテルを完成させ、この付近の現清澄一丁目私宅において電気実験を行ない、同8年51歳にて没した。 |
日本国重要文化財 清洲橋 東京都知事 石原慎太郎 橋長:186.2メートル 幅員:25.9メートル 清洲橋は、関東大震災復興事業によって建造され昭和3年(1928年)3月に竣功した。 清洲橋の特筆すべき点として、上部構造は日本国内では珍しい橋端部に水平力の及ばない自碇式連続補鋼吊橋で塔柱から吊るされた吊鎖を橋端部において主桁と連結し、主桁は左右の橋台に碇着し全支間にわたって等間隔に配された吊材で吊鎖と主桁を繋ぐ構造である。放物線状の優美な外観の吊鎖は、高張力マンガン鋼のデュコール鋼を吊鎖に用いるなど、洗練された造形によって、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。 下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚と、締切工法による橋台二基からなる。 建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興局土木部長太田圓三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師鈴木清一らである。 |