「河東碧梧桐君が二月一日に溘焉(かふえん)として逝きました。病むこと僅かに数日であって寔(まこと)に夢のやうな感じがします。病名はチブスに敗血症といふことでありました。(中略)一月九日に青々君を失ひ、二月一日碧梧桐君を失ふ」。(以下略)
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四月一日 (昭和二十二年)
虹の橋渡り交して相見舞ひ
小説「虹」の中の愛子に贈つた句。その頃、父も小諸の疎開先に病臥してゐた。愛子からも「虹の上に立てば小諸も鎌倉も」と送つて来たりした。愛子は死んだ。「虹消えて音樂は尚ほ續きをり 虚子」。
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四月六日 (昭和三十二年)
春曉の時の太鼓や舊城下
金沢に妹一家が住んでゐた。朝早く太鼓の音に父は覚めてゐた。それは旧本多屋敷の中の或るところからきこえて来たものではあつたが、父は故郷松山の東雲神社の暁の太鼓をきいた昔を思ひ出してゐたかも知れない。
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四月九日 (昭和二十一年)
遠く居る子は春霞親心
父はその頃、小諸にゐた。皮膚に何か出来てかゆくて困つてゐた、と或る文章に書いてある。晴子(私の妹)が秋田で病臥してゐた頃でもあつた。父はその数日後、新潟の医大附属病院に入院してゐる。
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四月十一日 (昭和二十五年)
年を經て再び那智の瀧に來し
「神にませばまこと美はし那智の瀧」の句碑が建てられて後、はじめて紀州路へ旅をした。まことにまことに美はしい滝と思つて仰いだ。約十餘年の月日も同じ頃とて、父は滝を仰ぎながら感深げであつた。
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四月二十二日 (昭和二十八年)
君と共に再び須磨の涼にあらん
「子規、虚子竝記の句碑、須磨に立つ由」とある。子規の句は虚子の東帰にとして「ことつてよ須磨の浦わに晝寢すと」。父の句は子規五十年忌として「月を思ひ人を思ひて須磨にあり」。
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四月二十六日 (昭和二十一年)
桃咲くや足なげ出して針仕事
「二十五日素十と共に帰諸。此日小諸散歩所見」とある。浅間の裾野の林檎園をぶらぶらと歩いて、とある。家の前を通り過ぎる時、縁側で母娘が針仕事をしてゐるのを見た。娘は長々と足をなげ出してゐた。
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四月二十七日 (昭和三十三年)
老いて尚ほ雛の夫婦と申すべく
九州へ父の最後の旅であつた。甘木、秋月の句碑除幕。門司に出、関門トンネル開通祝賀句会。海底トンネルを下関まで徒歩。岡崎旅館の老夫婦へ贈つた句。
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五月一日 (昭和二十四年)
山吹の花の蕾や數珠貰ふ
能登の旅も終り松任の明達寺へ非無師を訪ねた。野本永久(とわ)さんの病床を見舞ふ。父に「死ぬ時にこれをお持ちなさい」と、非無さんが数珠を下さる。兄にはお酒を入れなさいと瓢箪。私はおうすの茶碗を頂いた。
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五月十五日 (昭和三十年)
擴ごれる春曙の水輪かな
五月十四日羽田を発ち板付へ。二日市、玉泉閣泊。翌十五日柳川行。松涛園(お花、立花邸)泊。その日の句。それより熊本、江津荘泊。十七日三角港より島原。十八日雲仙を越え長崎、桃太郎泊。二十九日まで長い旅をつゞけた。
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五月十六日 (昭和三十年)
蒲團あり來て泊れとの汀女母
汀女さんのお母様は父より半年上のお方である。九州の旅の折、江津湖畔のお家を訪ねた。その頃の父は元気であつた。お母様も大変元気でいらつしやつた。蒲団が十分にある故お泊りなさい、としきりにすゝめて下さつた。
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五月十七日 (昭和三十年)
山さけてくだけ飛び散り島若葉
三角港から初姫丸に乗船、島原へ向つた。有明湾の静かな海上を船はぐんぐんと進んだ。美しい島原が見えて来た。点々とある島は昔一つであつたのがちぎれて斯くなつたときく。兎島などといふ名の島もある。
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五月二十二日 (昭和三十年)
螢飛ぶ筑後河畔に佳人あり
五月十四日より九州へ旅立。原鶴温泉、小野屋に至る。美しい女主あり。その夜、筑後河畔に螢狩の子等を見かける。菜殻火(ながらび)も見る。蚊遣の蚊もなつかしくいよいよ旅も終りに近づいた心持になり夜を更かした。
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五月二十三日 (昭和二十四年)
みちのくの今日の林檎の花曇
妹の高木一家は主人の勤めの都合で地方に住むことが多かつた。私等はその転勤先へかならずといつてよい程訪ねてゆくのであつた。青森から一夜泊りに浅虫温泉。へ出かけた。北国の初夏は又別の美しさであつた。
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五月二十八日 (昭和二十三年)
人來れば卯の花腐しそのことを
十六日、清原枴童歿。「高潔なる性情の持主でありまして、渡世の術にうとく、清貧に甘んじ、身を持することが高く、若し師弟の友情といふ言葉を使ふことが許されるならば、最も私に対して友情の厚い人でありました」。と父は書いてゐる。
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五月二十九日 (昭和三十二年)
しわしわと鴉飛びゆく田植かな
二十六日夜新潟著。二十七日亀田に田植を見に行きしときの句。二十八日岳王居。二十九日護国神社から砂浜に出、日本海を見る。かき正で句会。新潟には珍らしいよく晴れた日であつた。
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六月四日 (昭和三十一年)
天童に浴みせりけり明日は羽黒
羽黒山に旅立つた。途中、天童に一泊。温泉の湯が大変熱かつたと同行した姉が話してゐた。七十年昔、子規が仙台から作並温泉に出て山道を辿り天童楯岡の追分に出たといふことをなつかしみつゝ旅をつゞけた。
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六月五日 (昭和三十一年)
夏山の襟を正して最上川
天童を出て羽黒山に向つた。最上川の舟著場。子規はこゝから舟に乗つた。芭蕉もこゝから舟に乗つた。父はそのまゝ猿羽根(さばね)峠を越え、最上川に沿つて自動車を駆つた。最上峡で両岸に夏山の迫つてゐる所に出た。
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六月二十二日 (昭和二十六年)
温泉に入りて多だ何となく日永かな
米若が伊東に温泉宿を造つたからと誘はれて四五人で泊りに行つた。明日から開業するといふので、お客はなかつた。七面鳥が放し飼ひしてあつて時々庭に出て来てゐた。
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七月一日 (昭和二十一年)
緑蔭に靜にありて壽(いのちなが)
松山にある柳原極堂翁が八十になられた賀の祝に。翁がホトトギスを松山で創刊されたのを東京で父が明治三十一年に引継いだ。子規居士と同年。昭和三十二年十月七日(陰暦八月十四日)歿。「十四日月明らかに君は逝く」と父は贈つてゐる。
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七月十二日 (昭和二十二年)
涼し過ぎ少し日向に出てみたり
「土曜会一周年。小諸故郷宅。折から来諸中の杞陽、柏翠、素顔、香葎、三拍子も出席」とある。懐古園の門内の右手の石垣の上に宮坂故郷居はあつた。父が小諸にゐた頃、故郷さんは小諸の町長さんであつた。
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七月十三日 (昭和三十二年)
生涯の一事新藷出來のよき
鹿野山神野寺には二十七年七月五日にはじめて行き、二十九年に一週間行つて稽古会をしてゐる。山主山口笙堂さんが何かと斡旋して下さる家庭的な楽しい集りである。
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七月十四日 (昭和二十九年)
山寺に蠅叩なし作らばや
はじめて集つた神野寺は霧が深く蠅が多く黴くさかつた。笙堂さんが率先して私等をもてなして下さるし、成田山からも加勢が来て、句会は年々賑やかになつてゆくばかりであつた。
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七月十五日 (昭和三十二年)
愛子の虹消えて十年虹立ちぬ
小説「虹」の主人公の愛子が亡くなつて早や十年経つた。愛子が死んで後、愛居を虹屋と号して料理屋を柏翠がはじめたりしたが、結局それも4よして居を移した。神野寺の稽古会の一つ、大崎会での句。
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七月二十三日 (昭和二十四年)
西方の淨土は銀河落るところ
「夜十二時、蚊帳を出て雨戸を開け、銀河の空に対す」と書かれ、十餘句ある。「銀河西へ人は東へ流れ星」「虚子一人銀河と共に西へ行く」「寢靜まり銀河流るゝ音ばかり」等がある。
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七月二十日 (昭和三十三年)
我生の七月二十日齒塚立つ
神野寺の庭に父の歯塚が建つた。除幕式には紅白の餅を投げ、盛大な句会となつた。父の神野寺行はこれが最後であつた。その後七月二十日を齒塚供養として稽古会も兼ねて私共はお山に集るのである。
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八月十七日 (昭和八年)
船涼し己が煙に包まれて
上野を発つた一行十数人。仙台で大阪からの数人も乗り込み北海道へ二週間の俳句の旅がはじまつた。青函連絡船松前丸。函館には旭川から石田雨圃子(うぼし)さん等の出迎へを受けた。まづ旭川に向つた。
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八月二十日 (昭和八年)
石狩の源の瀧先づ三つ
北海道の俳句の旅は元気につゞいてゐた。層雲峡では大きな蕗の広葉の沢に大樹だ大緑蔭を作つてゐた。其処は石狩川の水ナ上ときかされた。木の間からぬつと顔を出す馬などがゐた。
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八月二十二日 (昭和八年)
バス來るや虹の立ちたる湖畔村
北海道の旅も早や半ば近くなつた頃阿寒湖に来てゐた。暁方に釣に湖へ船をだして行つたのは木國さん。私等は桟橋に並んで釣糸を垂れて遊んだ。毬藻を見る舟にも乗つた。舌辛峠の霧の中を徐行しつゝ弟子屈へ。
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八月二十九日 (昭和二十二年)
戸隱の山々沈み月高し
富岡犀川さん東道、戸隠に登り。お神楽を見、富岡砧女さんの墓に参り、犀川さんのお兄様の社家、宝光社に一泊。年尾兄も来る。素十、春霞、兄は中二階に、父と私は階下に。私は夜中蚤のために眠れなかつた。
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九月一日 (昭和二十一年)
羽を伏せ蜻蛉杭に無き如く
「ホトトギス六百号記念下吉田大会。富士山麓下吉田、月江寺。林鞆二の墓に詣る。とある。六百号に関した句ではないが、あたりの澄んだ空気と静寂さがひしひしとせまつて来る。
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九月八日 (昭和二十四年)
笹啼が初音になりし頃のこと
「昨年松山正宗寺に於けるホトトギス六百号記念会席上に、ホトトギスを創刊したる柳原極堂もありし。同寺に建つる句碑の句を徴されて」とある。正宗寺にこの句は句碑になつて建つて居る。
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九月十五日 (昭和二十六年)
子規忌へと無月の海をわたりけり
父は兄、泰、憲二郎、私の四人を従へて神戸から黄金丸乗船、高浜港に向つた。私等の船は穏やかな無月の瀬戸内海を松山の子規五十年年忌に参ず可く旅はつゞけられて行つた。
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九月十七日 (昭和二十六年)
旅といへど夜寒といへど姪の宿
波止浜には今井つる女の家があつた。今井一家は疎開したまゝ故郷に住みついてゐて、私等の訪ねるのをよろこんで待つてゐた。その夜、観潮閣泊。
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九月二十日 (昭和二十一年)
忽ちに雨面白や稲架濡れて
私は鎌倉から、句一歩さんは高崎から、父は小諸からと信越線に乗り合せて新潟へ旅立つた。新潟から多数参加、秋田へ。車窓の移り変りを眺めながら。
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九月二十一日 (昭和二十六年)
秋の蚊や竹の御茶屋の跡はこゝ
東野の竹のお茶屋といふのは久松様の隠居所で、父の幼時、祖父君がお留守居を承つてゐたときいてゐる。泰、憲二郎、私等は一日、ランチで興居島沖へ出てみたりした後、この東野へも行き、昔を偲ぶ父を見て皆でなつかしんだ。
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九月二十二日 (昭和二十六年)
こゝに宿る秋の一夜を記念せん
「伊丹、あけび亭。坤者招宴。一泊」とある。もとは酒造の小西さんのお家であつたとか。黒光りのする関西風の趣深い宿であつた。伊丹の古い家並みも昔を思はせ、静かさを心ゆくまで味はひながら休んだ。
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九月二十六日 (昭和二十一年)
野菊にも配流のあとと偲ばるゝ
ホトトギス六百号を迎へたのは父の小諸住みの時であつた。終戦後間もない頃であつたのでその記念句会は概ね地方で催した。直江津、五智の光源寺でも催された。浜谷浩さんが写された、強風の砂浜に立つ父の写真が残つている。
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九月二十八日 (昭和二十七年)
さびしかりしよべの十日の月を思ふ
「二十七日。つばめ西下。山中温泉俳句会に出席。河鹿荘泊り」とありる。十年前には愛子たちも共に吉野屋に泊つた思ひ出がある。私等は吉野屋を訪ねて、十年前愛子等の踊つた広間を見たりしてなつかしんだ。
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九月三十日 (昭和二十七年)
鴨を見に皆行きし留守たゞ樂し
三国紅屋を出で東尋坊の俳句会に臨む。芦原の開花亭に泊る」とある。近くの池に鴨がついたと開花亭の人が教へてくれたのでみんなは出かけた。父は「行きたくない」と云つて一人残つた。
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十月二日 (昭和三十二年)
秋の雲浮みて過ぎて見せにけり
知恩院の父の句碑を、京都駅から直接に行つて見る。それから山科の橙重居へ。庭に父と橙重さんの句碑が並んでゐる。それを見ながら句を作る。素中夫妻、奥山初子、里春、久鶴さん等も来る。
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十月四日 (昭和二十三年)
霧如何に濃ゆくとも嵐強くとも
我国燈台八十年記念で燈台守に贈る句を作るため、大久保橙青海上保安庁長官、橋本燈台局長に案内されて剣崎燈台へ吟行した。美しく晴れた秋空は高く澄み、茫々と芒が生ひ茂つてゐる中に燈台守の家があつた。
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十月五日 (昭和二十二年)
秋晴の名殘の小諸杖ついて
桃花會。小諸山廬。足かけ四年間を住んだ小諸を去る日が近づき、送別句会が催された。土地の人々とも親しさを増し、朝夕眺める山野にも別れ惜しかつた。庭石の傍に毎年背高く伸びて花をつけた紫苑にも心が残つた。
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十月七日 (昭和二十八年)