北条時宗の夫人覚山尼が北条貞時を開基として建てた寺です。「かけこみ寺」「縁切寺」といわれた男子禁制の寺法のもとに多くの女性を救った尼寺でした。しかし明治35年(1902年)から男僧寺となっています。美しい聖観音(重文戝)水月観音(県重文戝)があります。 |
漱石は明治27年(1894年)末より翌年1月10日まで円覚寺内の帰源院(石段の真向かいの寺)に止宿し、時の円覚寺管長釈宗演(1895〜1919)に参禅した。帰源院には当時帝大の哲学生鈴木貞太郎(後の大拙居士)も参禅中であった。この参禅の体験は『門』にくわしい。18年後の大正元年(1912年)9月11日、当時この東慶寺に遷住の宗演を再訪した。 |
この女作者はいつも |
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おしろひをつけてゐる |
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この女の書くものは |
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大がひおしろひの中から |
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うまれてくるのである |
1884年4月25日、田村俊子は東京浅草蔵前に生まれる。1902年、幸田露伴の門下に入る。1945年4月16日、上海で客死。享年62歳。東慶寺に墓がある。 |
明治18年(1885年)、四賀光子は長野県に生まれる。本名は太田みつ。明治42年、東京女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)卒業とともに太田水穂と結婚。昭和9年、鎌倉の扇ガ谷に山荘を設け、昭和14年に移住。昭和51年(1976年)、91歳で亡くなる。 |
昭和21年(1946年)12月4日、東慶寺でホトトギス六百号記念鎌倉俳句会。 |
「ホトトギス六百号記念鎌倉俳句会。東慶寺」。東慶寺の境内に天を摩すやうな大銀杏がある。その辺から左上にかけて墓所となつてゐる。野田大塊の墓は古びて来た。此処には文人の墓が多い。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
心よりやがてこころに伝ふればさく花となり鳥となる | 釈宗演 |
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雲に問へはくもはもたせり風にとへはかせなかれ去るいかにせましや | 佐佐木信綱 |
北鎌倉東慶寺 僧院は牡丹の客に苔厚し 広縁を拭き下照る牡丹あり
『残鐘』 |