2017年愛 媛

番町小学校〜子規「旅立ちの像」〜
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 松山市二番町の番町小学校(HP)に子規「旅立ちの像」があるというので、行ってみた。

 明治5年(1872年)10月、巽学校(大街道)・勝山学校(一番町)・智環学校(末広町)設立。

 明治13年(1880年)、正岡子規は勝山学校を卒業。

 明治18年(1885年)10月、巽学校・智環学校を勝山学校に併せる。

 明治20年(1887年)4月、温泉郡外側尋常小学校創立。

 明治25年(1882年)10月3日、子規は新橋から大磯までの旅をする。

 昭和53年(1978年)3月25日、卒業記念に虚子の句碑を建立。

 昭和61年(1986年)11月、番町小学校創立百周年。子規「旅立ちの像」除幕。

子規「旅立ちの像」


箱根の山の踏破を目指して草鞋の紐を結ぶ姿です。

右に子規の句碑があった。


 國なまり
故郷千里の
  風かをる

明治26年(1883年)の句。

『子規全集』(第一巻)「寒山落木二」に「松山会」として所収。

碑 陰

正岡常規
小學全科卒業ニ付
左之品賞與候事
一普通漢語解壱本
明治十二月十二月廿七日
勝山學校

昭和51年(1976年)3月25日、第89回卒業記念に建立。

左には高浜虚子の句碑があった。


 春風や
闘志いだきて
  丘にたつ

大正2年(1913年)、東京芝浦の三田俳句会で詠まれた句である。

 この一句について語ることは沢山ある。父が一時病気の為俳句から遠ざかってからの俳句界は、新傾向句が全国的にはやる形勢になった。俳句の本道は季題を尊重し、十七字の五七五でなければならない。本当の俳句を守る為に父はそれ迄の小説の仕事を擲って、俳句の道に立ち戻ったのであった。堅い決意から生れたものであろう。
(年尾)

『虚子百句』

 この句は大正二年二月十一日、三田俳句会において作られた。虚子三十九歳の時である。

 この句を理解するためには、どうしても当時の俳句界の潮流に触れなければならない。

 明治四十二年から四十四年にかけての西日本を行脚する「続三千里」の旅を終え意気軒昂な碧梧桐は当時の自然主義文学思潮を取り入れ、子規の写生を離れ現実描写に徹することで俳句の新天地を切り開こうとした。それは俳句を忘れたかのように小説に没頭する虚子をみて、自らが俳句の先駆者でなければならぬという使命感に駆り立てられたからであろう。虚子は最初俳句のことは碧梧桐に任せておけばよいと考えていた。碧梧桐の下には一碧楼、乙字、井泉水などの同志が集まり、新傾向運動は俳句界を席巻するかに見えた。

 四十四年の碧派機関誌「層雲」の刊行が新傾向運動のピークであった。ところが彼らの俳句革新運動は、あまりにも性急でとどまるところを知らず、俳句の形式破壊にまで進んでいった。明治四十四年一碧楼は無季、非定型を主張、大正二年井泉水は自由律俳句を唱え、大正三年碧梧桐は井泉水と袂を分かち「層雲」を去って一碧楼と「海虹」を創刊。乙字は同年臼田亜浪が創刊した「石楠」に拠る。

(中 略)

 観賞する場合、「春風」という季題が動かせない。春風駘蕩という言葉があるように春風はのどかに吹く風のイメージである。闘志という言葉の持つ激しさを内に秘め、暖かく穏やかに吹く春風に包まれて丘に立つ虚子。そうであればこそ人々が心豊かに集うことができたのだと思う。しかしのどかな春風は、実は冷たく厳しい冬を越えて吹くのである。


昭和53年(1978年)3月25日、第91回卒業記念に建立。

はばたけ


後日撮った写真である。

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