その昔、神倭磐余彦尊(神武天皇)が、この大瀧を神と祀られ大穴牟遅神の御神体と仰がれました。後に飛瀧権現と称し、今日では飛瀧神社となり、崇めて「お瀧」と申します。 高浜虚子は、この御瀧を「神にませばまことうるわし那智の滝」と詠じています。 大瀧は那智原始林から流れ出ている大川の流れがこの断崖にかかり落下して日本一の名瀑であり、世界遺産で国の名勝となっています。 又、この地域は吉野熊野国立公園特別地域・風致保安林・天然記念物にもなっています。 那智の瀧は直下133メートル・銚子口の幅は13メートル・滝壺の深さは10メートル・平時の水量は毎秒1トン程度と申します。 宇多上皇(1100年余前)をはじめ110余度の御幸があり、花山法皇の千日山籠り、又、役行者の滝業以来、修験道の道場となりました。
熊野那智大社別宮飛瀧神社
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明和9年(1772年)、加舎白雄は那智の滝を訪れている。 |
望滝水 那智山は玄聖のあそべる処か、あやしきまでに霊也。あふぎ見る滝津瀬は蒼穹に目のおよぶのみ、ほら貝釣鐘なんどいへる奇石数を尽し、画る人だもおもひかたからんかし。あまたゝび飛瀑布を見おろせど、幽渓に落入て其界をしる事なし。水かみは空をかぎりとすべし。落る処の定めがたきも又あやしからずや。左右にひゞきちるありさまは急雨の如くして、たちまち変じては霧と覆ふ。かゝる処に歩するは、粒をたち芝を茹ふ人ならではと、たれかれをさへ思ふ我をも疑ふ心地こそすらめ。始は心おだやかならず、既にして体おだやかに閑なるは、嗚呼霊の霊たるゆへなる哉。誠に塵須を濯ふて我心爰にあた(?)らし。 かくの如く滝にぬれけり夏衣 |
昭和8年(1933年)4月10日、高浜虚子は那智の瀧を訪れている。 |
神にませばまこと美はし那智の滝 鬢に手を花に御詠歌あげて居り 昭和八年四月十日 南紀に遊ぶ。橙黄子東道。那智の滝。青 岸渡寺。 |
案内記風に記せば、那智の滝はいわゆる那智四十八滝といわれる那智山南腹の瀑布群の総称で、吉野熊野国立公園の一部をなして居る。そのうちでも最も大きなのは、山麓にかかる一ノ滝。落高直下二七〇メートル、わが国第一の瀑布である。普通にはこれを指して那智の滝という。飛滝神社として祀る。碑は高さ六尺の角碑一ノ鳥居の左手に、聳える杉の木立を背景にして、もの静かに苔寂びて居る。 虚子翁は昭和八年四月十日、同行数名とともにこの神域の探勝に向われた。そのことを思い出しながら、あまり近過ぎるせいか、滝の響もこだましない静寂の裡に私はひたって居た。 |
昭和25年(1950年)4月11日、高浜虚子は星野立子と再び那智の瀧を訪れた。 |
年を経て再び那智の滝に来し 千尺の神杉の上滝かゝる 滝見駕青岸渡寺の玄関に 四月十一日 那智の滝に遊ぶ。宿前に同じ。
『六百五十句』 |
「神にませばまこと美はし那智の瀧」の句碑が建てられて後、はじめて紀州路へ旅をした。まことにまことに美はしい滝と思つて仰いだ。約十餘年の月日も同じ頃とて、父は滝を仰ぎながら感深げであつた。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
バスの人達を滝の前で待つて父を待たせて滝の近く迄 行つて見たりした。滝風がものすごく吹く。 滝落つる岩膚あらはなるときも もとの処に戻つて又暫らく滝を見る 風やんで今滝音や耳澄ます |
師の駕とともにあるなり花疲
『春の鳶 改訂版』 |
一九五〇年四月、「熊野」という結社の招聘によって赴かれる虚子師に随行してめぐった。暖かい土地の花見をたのしむことができた。七十七歳の師は恰幅おとろえず、なかなかお元気には見えたが、この上疲労が出てはすまないと、陰で周囲の弟子どもの気をつかったであろうことはよく分っていたのである。 「神にませばまこと美はし那智の滝」の句碑から飛瀧神社まで荒い石段があるので、用意してある駕に師はのせられて往復、随行者はお伴にまつわって歩行した。芝居をしているがごとく見られ、興味があった。 |
昭和39年(1964年)4月16日、高浜年尾は那智の瀧を訪れている。 |
四月十六日 みくまのめぐり第二日 瀞八丁をプロペ ラ船にて下る 勝浦中の島ホテル泊り 乱鶯と瀬音に峡の温泉の夜明け 大滝の巫女たち帰る花の夕 旅半ば春行く那智の大滝に
『句日記』(第二巻) |
昭和44年(1969年)11月9日、星野立子は高木晴子と那智の滝へ。 |
那智の滝。晴子も才子もはじめて。 |
初冬やどこに立ちても見ゆる滝 石段を上りつ下りつ那智初冬 |
尊勝院に泊る。 |
五月十七日 年尾句碑除幕 那智神社 宿院の朝霧の中滝遠音
『句日記』(第三巻) |
昭和46年(1971年)1月4日、高浜年尾は那智の滝を訪れた。 |
一月四日 那智大滝を拝し勝浦を午後二時の列車で帰宅 枯滝にして拝まるゝ那智の冬 |
瀧は音無の瀧。布留の瀧は、法皇の御覽じにおはしけんこそめでたけれ。那智の瀧は熊野にあるがあはれなるなり。轟の瀧はいかにかしがましく怖しからん。
『枕草子』(瀧は) |
明治36年(1903年)8月10日、長塚節は月光の中の那智の滝を見る。 |
やどりの庭よりは谷を隔てゝまのあたりに瀧のみゆるに、月の 冴えたる夜なりければふくるまでいも寢ずてよみける 眞熊野の熊野の浦ゆてる月のひかり滿ち渡る那智の瀧山 みれど飽かぬ那智の瀧山ゆきめぐり月夜にみたり惜しけくもあらず 眞熊野や那智の垂水の白木綿のいや白木綿と月照り渡る ひとみなの見まくの欲れる那智山の瀧見るがへに月にあへるかも このみゆる那智の山邊にいほるとも月の照る夜はつねにあらめやも |
大正7年(1918年)5月、若山牧水は熊野勝浦から那智に遊ぶ。 |
那智にて 赤島を出で雨強きなかを那智山に登り、滝見ゆる宿に一泊す。 末うすく落ちゆく那智の大滝のそのすゑつかたに湧ける霧雲 白雲のかかればひびき打ちそひて滝ぞとどろくその雲がくり 岩割けるひびきと聞え澄みゆけばうらかなしくぞその滝きこゆ とどろとどろ落ち来る滝をあふぎつつこころ寒けくなりにけるかな
『黒土』 |
昭和27年(1952年)、阿波野青畝は「かつらぎ」の夏行句会で那智の滝へ。 |
滝壺の怒濤の岩に嗽ぐ
『紅葉の賀』 |
「かつらぎ」の夏行句会があり那智の滝を写生した。おだやかに滝のかかる日であったが、さすが日本一の名瀑とうたわれる貫禄がある。 飛瀧神社でお祓いをうけた人は岩をはいわたりわたって滝壺に近づく。やさしく見えても滝の渦まくしぶきが大変だ。白雲のわきおこるように前景をさえぎる。ともかく漸くにして滝のつめたい水を手にすくいあげ、くちすすげた。もうしぶきに打たれて濡れ鼠同様の態で滝壺を早く離れた。これはしかし甚だ危険なことであった。一歩すべったらどうなることか。数十丈の高処より落下する水量と格闘する滝壺の水は怒濤である。風圧に息の根がとまるものすごい様相から、時化の荒海が連想される。 |
昭和29年(1954年)、水原秋櫻子は那智の滝へ吟行。62歳の時である。 |
那智山三句 咲き満ちて櫻撓めり那智の滝 滝落ちて群青世界とどろけり 青岸渡寺堂塔映えて藤咲けり
『帰心』 |
昭和31年(1956年)5月1日、水原秋桜子は再び飛瀧神社を訪れている。 |
飛瀧神社 羊歯萌えて御空より瀧落ちにけり
『玄魚』 |
昭和43年(1968年)、山口誓子は那智の滝を訪れている。 |
那 智 鳥居立つ大白瀧を敬へと 瀧落ちてゆくみづからを追ひ抜きて 大瀧は裾の亂れをつくろはず
『一隅』 |
昭和58年(1983年)8月21日、稲畑汀子は那智の滝へ。 |
これ迄の滝の印象捨てしより 砕けとぶ滝のしぶきに髪吹かれ 滝を見る目の位置も亦落ちてをり この滝を見ずに語れぬ旅なりし
『汀子第二句集』 |
平成16年(2004年)、「紀伊山地の霊場と参詣道」は世界遺産に登録された。 |