蛙田も夕つき臼の |
|||||||||
音もやみ |
明治15年(1877年)1月6日、清原枴童は福岡県に生まれる。本名伊勢雄。 大正2年(1913年)、上京。高浜虚子に師事。 大正6年(1917年)、吉岡禅寺洞は清原枴童と共に高浜虚子を福岡に招き太宰府に同道、虚子が詠んだ「天の川の下に天智天皇と臣虚子と」に因み、翌年に清原枴童らと「天の川」を創刊。 大正14年(1925年)、清原枴童は俳誌『木犀』創刊。 昭和23年(1948年)5月16日、没。享年64。墓所は専立寺。 |
五月二十八日。菁々子来。拐童の弔句を託す。 人来れば卯の花腐しそのことを |
消 息 | 虚 子 記 |
清原枴童君は五月十六日午前五時脳溢血のため急逝せられたとのことでありました。兼て軽微の脳溢血に罹つて歩行にも不自由なところが見えてゐたのでありましたが、つとめて俳句会に列席し、後進の誘導に怠らなかつたのでありました。高潔なる性情の持主でありまして、渡世の術にうとく、清貧に甘んじ、身を持することが高く、若し師弟の友情といふ言葉を使ふことが許されるならば、最も私に対して友情の厚い人でありました。哀惜の情に堪へません。 人来れば卯の花腐しそのことを
(昭和二十三年五月二十八日) 『ホトトギス』(51巻8号) |
昭和29年(1954年)3月28日、枴童七周忌。 |
山吹の七重八重さへ淋しさよ |
昭和47年(1972年)5月16日、二十五回忌に句碑建立。 |
同日 十六日に除幕すると聞く枴童句碑の為に 蛙鳴く夜を控へての集ひごと |