寛保2年(1742年)の「寛保の戌の満水」と呼ばれる大洪水により流失し、現在のものは明和2(1765年)、3年(1766年)頃の再建と考えられているそうだ。 |
馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門のみが残った大手の通へ出ると、紺暖簾を軒先に掛けた染物屋の人達が居る。
『千曲川スケッチ』 |
元小諸町長の宮坂古梁が晩年二の丸跡住み、懐古園を訪れる人達の良き案内人になっていたそうだ。 |
二之丸阯に藤村庵がある、古梁庵主宮坂さんが管理している、小諸文化春秋会という表札も出してある(藤村自身は藤村庵を深草亭と名づけた)。
種田山頭火『旅日記』 |
昭和48年(1973年)4月22日、小諸ライオンズクラブ5周年記念に建立。 |
名も知らぬ遠き島より |
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流れ寄る椰子の実ひとつ |
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故郷の岸を離れて |
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汝はそも波に幾月 |
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旧の樹は生ひや茂れる |
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枝はなほ影をやなせる |
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われもまた渚を枕 |
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孤身の浮寝の旅ぞ |
明治31年の夏、柳田國男が伊良湖に滞在、恋路ヶ浜を散策中に椰子の実を拾った。その話を島崎藤村に語ったところ、それが素材となって「椰子の実」の詩が生まれたという。 |
此の夕へ外山をこゆる秋風に |
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椎もくぬきも音たてにけり | 太田水穂 |
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高らかに歌ひつづけむ大らかに |
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人をも身をもたたへんと思ふ | 土屋残星 |
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しら雪にあけぼの匂ふ浅間山 |
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けむりしずめて高くそびゆる | 宮坂古梁 |
昭和25年(1950年)、二の丸跡に居を構えていた宮坂古梁が庭に建てた歌碑だそうだ。 |
昭和20年(1945年)4月14日、高浜虚子は星野立子と小諸疎開中に懐古園に遊ぶ。 |
紅梅や旅人我になつかしく 四月十四日 在小諸。懐古園に遊ぶ。 |
いはゆる小諸の古城址なる懐古園に行つてみる。滿目たゞ荒涼たる枯木ばかりのなかに、一本の紅梅の、蕾はまだ固いながらも、流石に春を忘れぬげに媚を呈せんとしてをるのに逢ふ。 紅梅や旅人我になつかしき
『小諸雜記』(小諸淺春) |
昭和20年(1945年)6月28日、高浜虚子は星野立子と宮坂古梁主催の小句会で懐古園へ。 |
六月二十八日。宮坂古梁主催小句会。小諸懐古園内、山城館。 古城趾といふ石垣のさいたづま 城趾暗し夏雲はたと日をかくし |
六月二十八日。宮坂古梁主催句会。懐古園・山城館。 熱き茶を飲めばすぐ消ゆ程の汗 その中に噂の人も居て涼し 梅雨明けしならん木々照り草そよぎ |
小諸城址 手に挟み牡丹の面(おも)をまざと見る 梅雨の霧浮彫の詩を指に撫づ
『方位』 |