旅のあれこれ文 学


高野素十ゆかりの地

素十の句

本名は高野与巳(よしみ)。医学博士。高浜虚子に師事。「芹」主宰。

山口誓子阿波野青畝水原秋桜子とともに「ホトトギスの四S」と称された。

 明治26年(1893年)3月3日 、茨城県北相馬郡山王村(現:取手市神住)に生まれる。

 昭和6年(1931年)11月23日、高浜虚子は高野素十の新居を訪ねる。

十一月二十三日。高田雑司ヶ谷亀原、高野素十新居を訪ふ。

 客主連れ立ちかへる落葉かな

 栗むいて指切りたるもをかしけれ


 昭和10年(1935年)1月、高野素十は新潟医科大学法医学教授となる。

   新潟へ赴任

雪の山見ゆるがせめて嬉しけれ

 昭和21年(1946年)4月25日、高浜虚子は素十と共に小諸へ帰る。

 昭和22年(1947年)8月29日、高浜虚子は戸隠へ行く。素十同行。

 昭和22年(1947年)9月、『初鴉』刊。虚子序。

 昭和24年(1949年)4月27日、高浜虚子は和倉温泉加賀屋にて句謠会。素十会す。

 昭和26年(1951年)11月、2回目の小国訪問。大久保橙青は高野素十を大観峰に案内した。

 昭和28年(1953年)、虚子八十の賀

   虚子庵句謡会、虚子先生八十の

俳諧の心に蝶の美しく

『野花集』

 昭和28年(1953年)8月、高野素十は奈良県高取町に移る。

   新潟を去る

桃の木は袋掛せしままに残す

『野花集』

 昭和28年(1953年)12月、『野花集』刊。

 昭和29年(1954年)5月、高野素十は京都山科に移る。

 昭和30年(1955年)5月26日、高浜虚子は九州旅行の帰途、高野素十の新居を訪れた。立子同行。

五月二十六日 素十新居を訪ふ 午後橙重山荘にて句会

 足悪き故いつまでも端居かな


 昭和31年(1956年)10月7日、中井余花朗邸で第二回関西稽古会。

   余花朗居

虚子来ると萩の主のまめまめし

『雪片』

 昭和32年(1957年)、俳誌『芹』発刊。

 昭和32年(1957年)9月8日、高野素十は「蛤塚」建立記念俳句会に参加。

   九月八月 大垣 蛤のふたみに別れ行く秋ぞ 芭蕉 の句碑
   建ちたる記念俳句会あり。夜、きぬ居句会 名月

昔より月に樗の二本の木

『芹』(11月)

 昭和35年(1960年)12月、奈良医科大学退職。

 昭和37年(1962年)、石橋長英は古稀を迎えて「石文記」を刊行。高野素十から「明け易き一日一日を重ねきし」の祝句が届いた。

 昭和51年(1976年)10月4日、83歳で死去。神野寺に葬られた。

ふるさとを同うしたる秋天下

古平文化会館(北海道古平郡古平町)

元日は大吹雪とや潔し

成田山青森分院(青森県青森市)

空をゆく一とかたまりの花吹雪

長光寺(群馬県伊勢崎市)

盃を重ねていゝ花夕べ

鹿野山(千葉県君津市)

多芸輪中大垣輪中夏に入る

養老寺(岐阜県養老郡養老町)

朴の花しばらくありて風渡る

甲山中学校(愛知県岡崎市)

一日の阿蘇行その後冬籠

(熊本県阿蘇郡小国町)

大観峰

(熊本県阿蘇市)

初蝶の溶岩につき当たりつき当たり

(鹿児島県鹿児島市)

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