旅のあれこれ


河東碧梧桐ゆかりの地

『三千里』 ・ 『続三千里』

碧梧桐の句碑 ・ 碧梧桐の句 ・ 『碧梧桐句集』

 明治6年(1873年)2月26日、愛媛県温泉郡千船町(現:松山市千舟町)で河東坤(号:静渓)の五男として生まれる。

 明治22年(1889年)、正岡子規にベースボールを教わる。

 明治28年(1895年)5月17日、正岡子規は金州から帰国の輸送船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院。27日、高浜虚子が京都から看病に来る。

 明治28年(1895年)6月4日、河東碧梧桐は子規の母八重を伴い東京から着く。

五月、子規、帰還船中喀血、神戸病院に入る。余、時に京都にあり、
行きて看護す。河東碧、子規の母堂を伴ひ東京より来着。


 明治28年(1895年)7月9日、河東碧梧桐は子規の母八重と東京へ帰る。

   碧梧桐の東歸を送る

短夜を眠がる人の別れかな

『寒山落木 巻四』(明治二十八年 夏)

 明治30年(1897年)1月、河東碧梧桐は天然痘に罹る。

   碧梧桐天然痘にかゝりて入院せるに遣す

寒からう痒からう人に逢ひたからう

   碧梧桐天然痘にかゝりし由聞て

もの神の火鉢の上にあらはれし

『俳句稿』(明治三十年 冬)

 明治35年(1902年)9月19日、正岡子規没す。

九月十九日。未明、正岡子規没す。

前日より枕頭にあり。碧梧桐、鼠骨に其死を報ずべく門を出づれ

ば旧暦の月明かなり

 子規逝くや十七日の月明に


 明治39年(1906年)8月6日、河東碧梧桐は両国から『三千里』の旅に立つ。

 明治40年(1907年)12月13日、東京に帰る。

 明治42年(1909年)4月24日、河東碧梧桐は『続三千里』の旅に出る。

 大正4年(1915年)、「層雲」を去って「海虹」を創刊。

 大正5年(1916年)2月5日、『碧梧桐句集』刊。

 昭和8年(1933年)、俳壇を引退。

 昭和12年(1937年)2月1日、河東碧梧桐は63歳で没。

   悼碧梧桐翁急逝

笠もいざ風雪の夜を三千里


三月二十日。「日本及日本人」碧梧桐追悼号。

碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり

 たとふれば独楽のはぢける如くなり


旧生方家住宅

沼田公園(群馬県沼田市)

瓜生岩子女史の銅像

浅草寺(東京都台東区)

杜国の墓碑

(愛知県田原市)

下郷亭

(愛知県名古屋市)

史跡・名勝 蓑虫庵

(三重県伊賀市)

碧梧桐生誕地

河東静渓住居跡(愛知県田原市)

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