2012年〜青 森〜
青函連絡船戦災の碑
〜「津軽海峡冬景色」歌謡碑〜
明治40年(1907年)5月4日、石川啄木は妹光子と共に陸奥丸で津軽海峡を渡った。 |
五月五日――青森――(陸奥丸)――函館 五時前目をさましぬ。船はすでに青森をあとにして湾口に進みつつあり。風寒く雨さえ時々降りきたれり。 海峡に進み入れば、波立ち騒ぎて船客多く酔いつ。光子もいたく青ざめて幾度となく嘔吐を催しぬ。初めて遠き旅に出でしなれば、その心、母をや慕うらむと、予はいといとしきを覚えつ。清心丹を飲ませなどす。 予は少しも常と変るところなかりき、舷頭に佇立して海を見る。
『啄木日記』 |
昭和6年(1931年)6月3日、荻原井泉水は青函連絡船松前丸で北海道に渡った。 |
六月三日、青函連絡船松前丸にて初めて北海道に渡る、 弘前鷹の会同人埠頭に見おくらる 君たち、浪に雨がおちてゐる隔りゆく 靜かに梅雨空のうねりに乘りてゆく船 デツキの六月の海を散歩してきたスリツパ これが海猫、といふに鳴かれて函館も雨
『海潮音』 |
昭和8年(1933年)8月17日、高浜虚子は青函連絡船松前丸で北海道に渡った。 |
船涼し己が煙に包まれて 昭和八年八月十六日発、北海道行。あふひ、立子、友次郎、 草田男、夢香、秋桜子、本国同行。八月十七日、青函連絡船 松前丸船中。 |
上野を発つた一行十数人。仙台で大阪からの数人も乗り込み北海道へ二週間の俳句の旅がはじまつた。青函連絡船松前丸。函館には旭川から石田雨圃子(うぼし)さん等の出迎へを受けた。まづ旭川に向つた。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
青函連絡船は、青函トンネルの完成により廃止されましたが、80年の歴史の中で「戦災」の悲劇を忘れ去ることはできません。 第二次世界大戦末期の、昭和20年(1945年)7月14日、米海軍艦載機の攻撃により、物流の大動脈であった青函連絡船「翔鳳丸」「飛鸞丸」「第二青函丸」「第六青函丸」が、8月10日には「亜庭丸」が青森湾で撃沈され、131名の犠牲者を出しました。この中に、函館船員養成所大沼分所の生徒14名(当時14、5歳)がおり、悲しみを一層大きくしました。 また、7月14・15日に津軽海峡と函館湾でも攻撃を受け、青函連絡船は全滅をし、乗員乗客424名の尊い人命が失われました。 今も、津軽海峡には「津軽丸」「第三青函丸」「第四青函丸」が、この航路に殉じた人々と共に、永久の眠りについています。 青森市民の目前で繰り広げられた、悲惨で残酷な空襲・戦災から60年を経ましたが、今では、当時の惨状を止めるものはなく、人々の記憶からも薄れ、知らない世代が増え、風化されつつあります。 青函連絡船戦災から60年目にあたり、この悲劇を歴史に止め、語り継ぐとともに犠牲になられた方々のご冥福と平和を衷心より祈念し、この碑を建立いたしました。
平成17年(2005年)7月14日 60年目の空襲・戦災の日に |
昭和20年(1945年)7月14日と15日、青函連絡船は米軍艦載機による集中的な攻撃を受け、大半が沈没、残った船も大きな損傷を受けた。 |
青森市は、昭和20年(1945年)7月28日夜、B29爆撃機61機の空襲を受け一瞬にして焼き尽くされ、公式記録では、死者731名、重傷者40名、行方不明者8名、焼失家屋15,125戸、罹災者70,166名と北日本最大の被害を受けた。 |
上野発の 夜行列車 おりた時から |
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青森駅は 雪の中 |
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北へ帰る人の群れは 誰も無口で |
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海鳴りだけを きいている |
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私もひとり 連絡船に乗り |
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こごえそうな鴎見つめ |
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泣いていました |
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ああ 津軽海峡 冬景色 |
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ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと |
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見知らぬ人が 指をさす |
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息でくもる窓のガラス ふいてみたけど |
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はるかにかすみ 見えるだけ |
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さよならあなた 私は帰ります |
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風の音が 胸をゆする |
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泣けとばかりに |
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ああ 津軽海峡 冬景色 |
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さよならあなた 私は帰ります |
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風の音が 胸をゆする |
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泣けとばかりに |
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ああ 津軽海峡 冬景色 |
抒情演歌「津軽海峡冬景色」は、広く国民に愛唱され、昭和から平成にかけての津軽海峡を風靡した天与の曲です。また、津軽海峡は四季折々の情景と共に、過去から未来にかけ青森県民に限りないロマンを与えてくれます。そして、青函トンネルが開通するまでの間80年に亘り、国土発展の重責を担い往復した青函連絡船に地域の人々は望郷を感じます。 そこで私共は、名曲「津軽海峡冬景色」を讃え、津軽海峡を愛する県民、青函連絡船に望郷を感ずる地域社会の心との懸け橋にするため幾多の与論を帯し、各界からのご賛同と協賛を得て、本碑を建立するに至ったものであります。 平成7年7月16日 |