今年の旅日記

東雲神社〜碑巡り〜
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松山市丸之内に東雲神社がある。

東雲神社手前の三叉路に子規の句碑があった。


牛行くや毘沙門阪の秋の暮

出典は『散策集』

 漱石の仮寓「愚陀佛庵」で病気療養中の子規が、明治28年(1895年)9月21日土曜日の午後、中村愛松(松山高等小学校長)、柳原極堂、大島梅屋(同校教員)の3人の松風会員に誘われるまま、病院下(今の東雲学園下)から、毘沙門坂、六角堂、千秋等、練兵場、杉谷町と散策したときに詠んだ24句中の2句目。

 ここは城の鬼門(東北)に当たるため、城の鎮めとして、昔、毘沙門天が祀ってあったので毘沙門阪の名がある。子規「散策集」所載。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

『寒山落木 巻四』(明治二十八年 秋)に収録の句。

東雲神社の入口に紅梅が咲いていた。


石段を上ると、右手に虚子の句碑があった。



遠山に陽の当りたる枯野哉

 明治33年11月25日の作。虚子の生育地である松山市玉川町(現在の松山市一番町1丁目)から東野・湯山方面を遠望して写生したもので、明治期の代表作であり、虚子満25歳の時の自賛句である。

 玉川町、東野・湯山方面の展望もよく、能楽にも縁のふかいこの地に昭和48年11月、虚子生誕百年記念に建立した。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

さらに上ると、左手に内藤鳴雪の句碑があった。


雲のほがらほがらかと初桜

 鳴雪は江戸松山藩邸で生まれ、愛媛県学務課長、文部省参事官を経て常磐会寄宿舎監督となった。

 鳴雪は子規の祖父大原観山に漢詩・漢文を習ったが、その孫の子規から俳句を学び子規派の長老として尊敬され、雑誌、新聞の俳句欄の選者として活躍した。大正14年死の前年に、東雲神社での風詠を句碑とした。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

東雲神社


 主祭神は、天照皇大神、豊受大神、天穂日命、菅原道真公、息長福玉命などである。

 文政6年(1823年)、松平松山藩11代藩主定通が、松山城山揚木戸に仮宮を営み、藩祖である松平定勝の神霊を招請し、息長福玉命と称えて祀ったのがはじまりである。その後、天保11年(1840年)、12代藩主松平定穀(勝善)の代に松山城長者ケ丘に社殿を造営し、東雲大明神と呼び、一藩崇敬の神社とした。菅原道真は久松家の先祖神で、天穂日命は菅原氏の祖神といわれている。

 明治13年(1880年)には東雲神社と改称し、県社に列した。昭和20年(1945年)7月の松山空襲で、社殿など数多くの建物が焼失した。昭和46年(1971年)、伊勢神宮の分社松山大神宮を御奉遷し、昭和48年(1973年)に神明造りの社殿が完成、松山大神宮と東雲神社の神霊が合祀奉斎された。

松山市教育委員会

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