慶応3年(1867年)2月11日、伊予国温泉郡北京町(現:松山市二番町)に生まれる。 明治16年(1883年)、正岡子規と謀って松山中学を中退し上京。 明治20年(1887年)、子規は極堂とともに大原其戎を訪ね教えを受けた。 明治22年(1889年)、松山に戻り海南新聞社に入社。 明治28年(1895年)9月20日、子規は漱石の愚陀佛庵で療養していたが、この日はじめて散歩に出た。極堂が一緒だった。『散策集』 明治30年(1897年)1月、極堂は松山で俳誌『ホトトギス』創刊。 |
明治三十年一月・柳原極堂、松山に「ほとゝぎす」を發刊す。祝句。 時雨木枯のあれあれて生れ出しもの 『贈答句集』 |
昭和元年(1926年)3月10日、子規堂を設置。 昭和8年(1933年)、2月6日、正宗寺失火、子規堂類焼。 昭和9年(1934年)、飯坂温泉、仙台、松島に遊ぶ。 昭和10年(1935年)9月14日、子規堂再建。 昭和15年(1940年)2月15日、道後湯之町放生池畔に「春風やふね伊豫に寄りて道後の湯」の句碑を建立。 昭和20年(1945年)7月26日、空襲により子規堂焼失。 昭和20年(1945年)、柳原極堂は洗心庵址観音堂に仮寓。 |
洗心庵二句 老松にあやかり住むや老の冬 時雨るゝも晴るゝも庵の一つ松
『草雲雀』(「日記」より) |
松山にある柳原極堂翁が八十になられた賀の祝に。翁がホトトギスを松山で創刊されたのを東京で父が明治三十一年に引継いだ。子規居士と同年。昭和三十二年十月七日(陰暦八月十四日)歿。「十四日月明らかに君は逝く」と父は贈つてゐる。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
昭和21年(1946年)12月19日、子規堂を建設。 |
子規堂再建 堂再建芽吹かん木々は皆燒けて
『草雲雀』(「日記」より) |
昭和25年(1950年)7月1日、中西月龍は極堂の句碑を建立。 |
昭和26年(1951年)9月19日、松山市役所にて子規居士五十年祭。 |
子規居士五十年祭 感無量まだ生きて居て子規祭る
『草雲雀』(「日記」より) |
昭和27年(1952年)10月10日、荻原井泉水は柳原極堂を訪ねる。 昭和28年(1953年)4月26日、道後公会堂にて米寿の祝賀会。 |
米壽祝賀會自祝 手のひらにいたゞく春の光哉
『草雲雀』(「日記」より) |
昭和29年(1954年)、句集『草雲雀』を刊行。 |
十月七日 柳原極堂死す(陰暦八月十四日 子規の逝きたるは同じく陰暦十七日なりし) 十四日月明らかに君は逝く |
柳原極堂翁を悼む(十月七日) その声のはたと消えたる秋深し 高浜年尾『句 帖』 |
昭和50年(1975年)5月、竹内光彦は極堂の句碑を建立。 |
昭和50年(1975年)6月、盛景寺に極堂の句碑を建立。 |
昭和53年(1978年)11月、西山興隆寺に極堂の句碑を建立。 |