立子句碑

星野立子『句日記』T ・ U

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昭和40年(1965年)

 お昼近く、自動車二台で修禅寺へ向う。天城峠越えははじめてである。道が悪い。兎に角修禅寺に着き、新井へ。荷を置いてまず兼ね兼ね詣り度いと願いながら中々行けなかった茅舎の墓へと山路を登る。新井屋の墓所も見つかり詣ることが出来た。

墓石になつかしき句や春の空

 明治三十二年に夭折した新井屋の子供さんの墓石に父の句が刻んであった

蓮の葉の玉と消えたる涙かな   虚子

 父がまだ二十代の句である

春山路心にありし墓訪ね

人の世の川音春を奏でをり

 五月十八日 菅生神社は岡崎公園(城址)のはずれにあった。近頃流行しているテレビ映画で家康公も私等には親しく、家康の生れたお城と思って見る。銅像を仰いだり、公園内を歩く。見事な藤棚の下は茶店あり物売屋ありベンチも沢山に、広々と紫色の日かげをつくっていた。私も一つのベンチに暑いような日ざしをさけて腰かける。

独りごちつゝ緑蔭を足早に

薫風や見るも触るゝもみな季題

藤落花一歩踏みては挨拶す

くゞり入る藤棚の下茶店もあり

 六月十三日 ゆのくに号にて金津十時半着 三国 東尋坊 句碑
除幕式 明信寺 成田山分院隣の宿に入る 句会 早寝

梅雨の蝶今ひらひらと句碑除幕

梅雨寒の句碑の辺を海女ゆきゝする

 金谷へ フェリーボートをまつ間一句会

夏書の心感謝の心墨をする

 九月六日 会津若松 鶴ヶ城を見る

秋天に今日より永久に鶴ヶ城

仲秋や復元したる鶴ヶ城

昭和41年(1966年)

 ハイヤーに分乗して波止浜へ 観潮楼

灯の下に大桜鯛運ばるゝ

旅馴れて来て波止浜の晩涼に

 観潮楼泊

 小島に心を残しつつ再び波止浜に戻り、バスで西ノ下へ向う。バスは冷房である。菊間あたりは瓦を焼いている煙が立ちのぼり、なつかしい名の高繩山、腰折山などを左に見ながら西ノ下に着いた。皆々句碑をかこみ、私等の話に耳を傾けて句作。通夜堂で句会。

心今昔に戻り青嵐

まだ遍路見ず埃立つ道をゆく

薫風や思ひゐしより松老いて

 西ノ下の句碑に別れて松山へ。遙かにお城が見えて来る。内濠を西より南へ東へとめぐり大街道を右に見て目的の石手寺へ。

 私が句を作るようになってからはじめてここへ連れてこられたのはもう三十余年の昔であった。八木花舟女さんが一緒に、大香炉の線香が風が吹く度にぼうぼうと燃えた様子が未だ目に焼きついている。父も花舟女さんももう亡い。時間の都合で東野へ急ぐ。

東野の蛙の声にかこまれし

蜘蛛の囲を払ひ払ひて先導す

遙々と思ひつゞけて来し夏野

 道後ふなや泊。昔の面影は殆どなく鉄筋建になっている。昔馴染の按摩さんが来てくれる。

 六月八日 グリルで朝食。一行の中のときをさんの誕生日とのこと。

 遊覧バスで市中見物。お築山のお墓詣にも皆さんが来て下さる。池内信嘉伯父さまの三十三回忌に当る年とてその墓前に深く頭を下げる。正宗寺へ。安倍能成さん逝去のことをニュースで聞く。宗担和尚が父の声や能成さんの声のテープをきかせて下さる。

 お城山の下までゆき、城山に行く人々をバスで待つことにする。おけいさんという私と同い年位であった幼い頃の知合がつるさんをバス迄訪ねて来る。私には五十余年ぶりの再開であった。

 護国神社で句会。

松山の青葉今よし案内せん

なつかしと奏で涼しや中の川

人の訃を旅先にきく明易き

 夕刻 松山駅を発ち高松へ 車中句会

つる女下車今治発車月見草

麦殻焼く煙を蔵す火色かな

夕凪の松山あとに旅つゞけ

扇風機車窓暮れゐしいつの間に

 高松 旅館河竹泊

 六月九日 雨。バスで屋島へ。視界なし。

 栗林公園一巡し、港へ。連絡船さぬき丸は雨の中を定刻出帆。別れを惜しんで宇部迄同船された赤実果さん一行と船中句会。船はよく揺れるが句会の為酔う暇もない。

綾なして梅雨の雨脚紫雲山

梅雨荒れの今日の船旅心細そ

紫雲山裾濃に松の深緑

掬月亭雨戸細目に梅雨荒るゝ

 八月二十二日 夜半星美しく暑くて窓を開ける。五時半起床。バ
スに一同乗り込み、浅虫をあとに青森―竜飛へ向う。青森を出はづ
れ海岸に沿って蟹田迄。途中観瀾山に登る。

再びは来られざるこの山の秋

 八月二十三日 快晴 の先に立つ

秋晴の風なき竜飛珍しと

秋潮にわが影移る朝日かな

秋蝶のくつきりと見え波の上

 遙かに見える島は北海道とのこと。潮流がこの高い岬からよくそ
れと見える。

 宿に戻ってジュースを飲む。万歳先生のお話が心に残る。帰りの
バスが十時に発つ。義経寺に寄り小憩。あまり暑いので氷水を飲む。

義経寺はたゞ暑かりし松二本

花野中始発三厩駅といふ

 三厩から汽車で青森へ。

 同夜八時半、仲秋名月を見る集りを晴子居に

夕餉終ふ早や月でゝをりにけり

電線と四角き家と満月と

月の道帰りを急ぎゆく人等

 十二時二十分大原発のバスで京都へ。

 タワーホテルの地下、京藤でてんぷら定食を食べ、楠井光子さんに案内して頂いて枳殻邸へ。渡辺静子さんも来られ初対面の挨拶。予定の時間まで遊び、新幹線で帰途。

 日の岬

隠岐見えぬことは残念秋日和

 十時十六分松江着。八重垣神社へ。正立教子さんに久しぶりに会
う。むらくも荘昼食、句会。八重垣神社の鏡の池のあたりが面白かっ
た。唯の畦道を歩いたり枝豆が畔にあるのをつくづく見たりして歩く。

鵯が鳴き日が当り野路はるか

稲架の香をきゝたしとこの道をとる

秋晴やよきと好きとは違ふもと

 宍道湖畔の松浦まさ女さんの宿に入る。

次々と挨拶交し小鳥来る

秋晴や湖中に今しえり(※「魚」+「入」)あぐる

宍道湖や旅の我等に渡り鳥

 八雲旧居へ句碑を見に案内。宿に帰り着くと、今美しい入日がす
んだところであったと惜しがられる。夕食はまさ女さん心づくしの
珍しいお料理を頂く。食後句会。

惜別の夜の秋灯を見上げたる

十一月十三日 玉藻探勝会 藤沢 遊行寺

遊行寺はなつかしき寺時雨れをり

昭和42年(1967年)

 一月二日 十時十五分上野発 高 昌子 菊子 青嵐 すゑ 豊子
私と東海行 雨霽れて快晴となる 東海ホテル

お降に明けたることを文に書く

 虚空蔵さんに初詣

二日の日廻廊にあり詣で去る

旅先の虚空蔵尊に初詣

細やかな枯枝かむりて仰ぐ空

 五月二十日 千代田句会。靖国神社内洗心亭。

 私の生れたところのすぐそばの靖国神社はいつ来ても何か思い出
があってなつかしい。

なつかし池辺に立てば風薫る

いつの間に又緑陰に入り歩む

緑陰のわが故郷はこゝなるよ

 恐山はつまらない処であった。天然の噴火のあとに人間が名をつ
けて橋や小山や水があちこちにあるところである。陽気でない処
である。

極楽の土に影おき大やんま

炎天の下に虫鳴き恐山

来し方を振り向かずゆく秋風に

秋の蠅多かりしこと恐山

 九月一日 十五人会 昨夜軽井沢泊り 今日は三笠宮様の別墅
に集る。白糸滝へ御案内頂く。

病葉のはらはらとはらはらと散る

岩膚に水吹き出でゝ滝千筋

六双の又六双の屏風滝

滝壺のおだやかに広々とあり

 十月十五日 関西の玉藻句会をといわれ 須磨浦公園へ 父の句


   子規五十年忌

月を思ひ人を思ひて須磨にあり   虚子

をはじめて見る 公園内のレストランで一と句会

秋晴やわづかな閑を大切に

 十月二十八日 名古屋行。国際ホテル。午後、犬山に向ってドラ
イブ。

 犬山城の入口に丈草の句碑

涼しさを見せてやうごく城の松   丈草

 犬山城から展望。御嶽見えず。中仙道の車の往来がきらきら見え
る。

 虹の松原へ時雨の中を自動車を馳せる 領布振山から美しく雨に
霞む松原を遠望 その上に秋の潮

うす紅葉しそめ領布振山の雨

 呼子町へ向う。金丸るりさんの宿に入る

 十一月十一日 七時半朝食。八時四十分船。快晴。鯖のみりん干
が沢山に道端に見かけられる。

 二雙の船に分乗して田島神社へ向う。さびれた小さな島である。
その中に古い鳥居がよい。再び船で戻り、名護屋城へ。田辺虹城さ
んの御案内に預る。城垣が心を引く。

大手坂小春の蝶に從きのぼる

鵙たける名護屋城址に今我等

小春凪我も静かにしてゐたし

城址去る栴檀の実の坂下りて

 十一月十二日 睡眠不足が解消され、爽快になる。川下りの船に
お花邸のお庭先から乗る。水郷らしい情緒をはじめて味わった。

広ごれる春曙の水輪かな   虚子

の句碑が意外なところにあるのを見た。この句は先年、このお花に
父のお伴をして泊った折に作られた句であって、お花の庭の広池を
写生したものであることは私丈でなく、誰でもその日いた方は知っ
ている筈なのにと思った。十一時締切で一と句会。

留守の間に萩叢刈られ惜しかりし

布袋草舟路の波にかた寄りて

麥ぼこり暫らくかむり舟すゝむ

柳川の初冬の朝の舟だまり

舟ゆくや末枯の野を見上げもし

 十一月二十日 九時五十二分大船発小田原へ 小田原より「こだ
ま」米原より「雷鳥」北陸行 金沢にて

北陸の時雨を恋うて来りたり

白髪をきれいに結ひぬ木の葉髪

トンネルを重ぬる毎に紅葉濃し

快晴に旅立ちこゝに時雨著く

暖かな時雨日和といひ黙す

金沢の小春日和となりし縁

 金沢兼六園

坂下りる折しも時雨れ華やかに

 十二月十五日 十五人会 横浜南京街

元町は楽しきところ十二月

乱暴に書けてしまふ字街師走

空風にま向ひて行くまた楽し

昭和43年(1968年)

 清水宗治 水ぜめの高松城址

土盛りて首塚とあり草紅葉

首塚となり静まれる小春かな

 吉備津彦神社境内に父の句碑があり 見に行く「枯野」の句 句
碑の辺に椿を植える

一人一人椿を植うる賑やかに

句碑訪ね来て吉備津野の小春かな

昭和44年(1969年)

 五月十日 観音埼に句碑除幕式

霧いかに深くとも嵐強くとも    虚子

汽笛吹けば霧笛答ふる別れかな   橙青

除幕せし句碑に忽ち夏の蝶

夏潮の今輝やかに輝やかに

句碑除幕すぐに似合ひや蝶とべり

 五月十六日 水戸行。弘道館をはじめて見、心ひきしまる。親しみを覚える。東武館に小沢喜代子さんを訪問、久闊を叙す。定盤神社参拝。水戸玉藻の方々と喜代子さんも加り袋田へ。よく歩く。

袋田の滝全体の見ゆる迄

心地よく疲れをりけり滝の前

滝川に山女釣り居る静かさよ

緑著て月居山といふ名持ち

 五月十七日 袋田を出て矢祭山

久慈川は常に車窓に新樹行

旅にゐて五月も半ば過ぎつゝあり

父想ふことが力よ新樹行

 つつじの美しさに目を見張る

 六月十五日 玉藻探勝会 潮来 鹿島神宮

船頭に行手まかせて行々子

神さびて大緑蔭に宮居あり

 十月十二日 由布山のよく見える日の城島高原であった

心中にとゞめおかんと山の秋

硫黄山仰ぎ見返り由布の秋

 海地獄

蛾蜻蛉芥の如く海地獄

 再び城島高原に戻り 句会場へ 句碑を見る

花野行く太陽の下風の中

秋空の下大勢に逢ひ別れ

句碑見んと花野の小道踏み分けて

 白馬村に入る

紅葉山近づく程に紅葉よし

 白馬観光東急ホテル

十月二十八日 快晴 ゴンドラに乗りリフトに乗り八方尾根展望
台に行く 五竜を望む 天狗 槍 杓子 白馬 れんげ等々

濃き秋日リフト人みな光りもち

昨夜吹雪ありしといへる山小屋に

 新雪を踏み歩く。

そこから下りて栂池へ。栂の木までは私はゆかずに草紅葉を
歩いて待つ

採集の人散りゆきぬ花野中

雲少し風少し出で紅葉山

疲れ過ぎしや否やと秋夕焼

 ホテルに帰り 泊

 十一月八日 二十一時十七分、大船発の紀伊号で紀州へ。同行、
高木晴子、渡辺才子の二人。

 十一月九日 紀伊車中。途中尾鷲の植地芳煌、植村三舟さんが乗
車。

 新宮駅、成江雅子さん等に迎えられ、かわゐ旅館に小憩、朝食。
那智に向う。途中、補陀洛寺へ詣り、話をいろいろきく。何か印象
に残るもの。  那智の滝。晴子も才子もはじめて。

初冬やどこに立ちても見ゆる滝

石段を上りつ下りつ那智初冬

尊勝院に泊る。

初冬の滝音幽か夜に入りぬ

 高野山に着く 森白象さんの普賢院からお迎えの自動車

 十一月十一日 お山の寒さに驚く 午前中を坊の奥様の御案内で

奥の院へ

炎天の空美しや高野山   虚子

 右の句碑に再会。どうも句碑の位置が前と違っているように思う。

 坊に戻り、鯨洋さんは田辺へ帰られ、我等四人残る。白象さんの
御好意で、池内伯父の位牌に詣り、先日亡くなったばかりの高木雄
平、雄平禅童子の御供養をして頂く。

御経に導かれつゝ紅葉冷

 夜は霙

 十一月二十一日 石田波郷逝去

 十一月二十五日 芙蓉会 箱根行

雪かづく富士の頂雲も白

 全くの小春日和である

冬晴のよき住居あり窓広く

 冠峰楼(上湯)大涌谷温泉にて句会。

枯芦を吹く風音に親しみぬ

ぶな林近づくほどに枯木よし

霜柱踏めばきらきら光り変へ

昭和45年(1970年)

 五月十七日 七時七分出 上野発八時四十分浅間に乗車 玉藻探
勝会で小諸行

柿若葉もつとも色を浮かせたり

雨降れば雨も楽しみ花林檎

五月雨の記憶は林檎花下にあり

水音も記憶の中にありて夏

町中の変りしとても宮新樹

 夜 八時半締切 一行八十二名

花林檎一と昔否大昔

新緑も新樹も夜の闇の中

 薬師館

 五月十八日 バス九時出発 千二百米の高峯高原行

静かさや老鶯谺してをりて

わが思ふまゝにバスゆく山新樹

蝶々の山路に現るゝ刻とかや

好きな句を思ひ出しつゝ蝶を見る

 上沢寺へ寄り 下部ホテルに入る

障子しめて冷房のゆきわたり来し

大石の蟻を払ひて腰かけぬ

 昭和三十三年四月十三日の父の句が 句碑となって建っている

この行や花千本を腹中に   虚子

新涼のこゝまで来れば句碑見たし

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