2015年香 川

屋島寺〜源平屋島合戦〜


高松市屋島東町に屋島寺がある。


仁王門


四国八十八ヵ所霊場第84番札所

真言宗南面山千光院屋島寺

仁王門を入ると、左手に屋島寺南広場がある。

源平屋島合戦の模様を描いたレリーフ


中央に供養碑がある。

昭和60年(1985年)12月、建立。

源平屋嶋合戦八百年供養碑

 寿永4年(1185年)早春の屋島に繰り広げられた源氏・平家の屋島の合戦は、滅びるものの哀れと追うものの雄々しさを描く一巻の繪巻物として現代も語り伝えられ、今もなお、合戦の哀史をしのぶ数多くの史跡が残され、「佐藤継信の墓」「菊王丸の墓」また、扇の的にちなむ「祈り岩」や「駒立岩」が点在している。

 今を去ること800年の昔、この地で合戦がおこなわれ、この土の下に源氏・平家のつわものどもが眠ることをことを思えば、歳月の流れを考えずにはおれないものがある。

 源平屋島の合戦から数えて800年にあたる今年、寿永の昔を偲び、また合戦戦没者の霊を弔うため、供養碑をここに建立し、永く後世に残すものである。

 佐藤継信は佐藤基治の子。義経の盾となって矢を受けて亡くなったという。福島の医王寺に墓がある。

四天王門


貞亨2年(1685年)、大淀三千風は屋島を巡る。

○各伴ひ家島めぐりす。だんのうら。内裏の跡。次信墓。洲崎堂。惣門の汀。相引の塚。五劒山。矢くりの島は山陽百里。目の下にみゆ。記を書て。

   矢くり山大の凉風に胸板のうらを書ぬる眺望の筆。


四天王門の右手に芭蕉の句碑があった。


夏艸やつはものどもの夢の跡

出典は『泊船集』

『奥の細道』では「兵どもが」。

 元禄2年(1689年)5月13日(新暦6月29日)、平泉の高舘で詠まれた句。

大正13年(1924年)1月、無門俳壇建立。

碑陰の中央に無門庵主惺の句が刻まれている。

血にむせぶ栄枯の夢やほととぎす

無門庵は盛氏。鹿児島の人。

大正14年(1925年)10月、高松紺屋町に80歳で歿。

散り惜しむ法の教への桜かな

主惺の句の左右に30人の句が3段に刻まれている。

千鳥鳴く月の出潮や談古嶺
   岡坂蝸牛

散るもよし可正桜の浦の春
   亀井如雪

月かなし秋の屋島の浪の音
   松原松琴

屋島寺

当寺は鑑真和上過海大師が開創の基を開きその弟子恵雲律師空鉢と号した人が初代の住職となったと伝えられ、初めは律宗であったが弘法大師が真言宗に改めた寺で、四国八十八ヶ所の84番の札所であります。本尊千手観音は平安時代前期の作であり、本堂は鎌倉時代の末頃の建築で共に重要文化財に指定されています。 書院裏には名園雪の庭があります、鐘楼の釣鐘は鎌倉時代の初め貞応2年に鋳たものです。

なお源平合戦の遺物など陳列した宝物館があり、狸で有名な蓑山(みのやま)明神の社もあります。

屋島寺本堂


真言宗御室派の寺である。

重要文化財 屋島寺本堂

この堂は今から650年余り前の鎌倉時代末ごろに建てられたものですが、350年程前に竜厳(りゅうごん)上人が大修理をし、昭和32年2月から解体して2度目の大修理を加え2か年を経て昭和34年5月に復元工事を完成したものであります。

重要文化財 本尊十一面千手観音

本尊十一面千手観音は今から約1,070年程前(貞観時代ともいう)に彫まれた一本造りで全身に漆を塗り金箔をおいた座像で光背も当時のものです。

五剣山


五剣山山腹に八栗寺がある。

   讃岐・屋島へ
   2月18日

頼朝の平家追討の命に従い義経は、軍監であった景時に本隊を託し、大将自らわずか150騎ほどの軍勢を引きつれて摂津(大阪府)から暴風雨のなか船を漕ぎ出し、阿波勝浦(徳島県小松島市)に上陸しました。数千ともいわれていた平家軍団を背後から急襲しようというのです。

上陸後、伊予河野氏攻略のため手薄となっていた平家方の城を攻め落とし、屋島へ急ぎます。大坂峠を越え讃岐に入った源氏軍は、丹生辺りから海岸沿いと内陸路の2隊に分岐、義経本隊は内陸路を長尾から三木そして屋島へと迫って行ったのです。

   屋島合戦    2月19日

午前8時頃、丹生で別れた支隊と合流。源氏勢は地元の豪族も味方に引き入れ300騎ほどの軍にふくらんでいました。屋島の南、今の古高松のあたりの一帯の民家に火を放ちながら平家の総門を占領します。

時を同じくして後藤兵衛父子、那須与一ら30余騎どは浅瀬の赤牛崎から屋島に上陸、安徳天皇の行宮へ向かい平家内陣をことごとく焼き払ったのです。屋島の対岸、五剣山の西麓に数百隻にも及ぶ軍船を隠し、海路からの源氏の襲来に備えていた平家は思いもよらぬ背後からの急襲・火攻めに源氏の大軍が襲来したとばかりあわてふためき、辛うじて船で沖へと逃げます。

沖に出てようやく落ち着きを取り戻した平家。陸を振り返ればわずか300騎余りの源氏の奇襲だとようやく気づいたのです。

以後、沖の平家船団と浜に騎を進めた源氏騎兵軍団の壮絶な戦いが繰り広げられました。

   2月20日

昨日に続き、牟礼浜海岸で源平両軍の戦いが続きます。この日の戦いで、那須与一の扇の的など数々のエピソードが残されました。

戦いの中、平家は伊予河野氏攻略中だった1,000余騎の援軍の到着を待っていました。教経はこのことが源氏側に悟られないよう「七縦七檎の策」(攻めては引き、また攻め返して敵を疲れさせる戦法で、三国志の名軍師諸葛亮孔明が南蛮攻略で使った戦法)をとり、義経の注意を海上にひきつけました。

   2月21日

早朝、平家は船で八粟半島の北を廻り志度に上陸し源氏勢を背後から攻める最後の作戦にでました。この奇襲作戦を義経はいち早く察知し、80余騎を引きつれて志度へ急行。源氏優勢と見た讃岐の豪族や瀬戸内海水軍は旗をひるがえし源氏に加勢。志度寺付近で平家に壊滅的な打撃を与えたのです伊予から田内左衛門以下1,000余騎の援軍が到着するも櫻間介能遠に平家不利と説き伏せられ解軍。最後の望みの綱も絶たれた平家は屋島に引き返そうとしますが、義経の軍監梶原景時の大船団が来るという噂にも翻弄されて、2月21日夕方、屋島をあとに西海へ落ちて行くことになったのです。

『吾妻鏡』に「那須与一の扇の的」のエピソードはない。

与一目をふさいで、

「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度面を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」

と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。

『平家物語』(卷第十一)

 「七縦七檎」は、諸葛亮が孟獲を七回捕らえ七回釈放し、孟獲を心服させたという故事。

 寛政3年(1791年)4月、蝶夢高松城下から屋島寺を訪れている。

家島は前も後も海の中にありけるを、今の世には前のかたは潮さし入るばかりの、せまき入江にて鹽やく濱なり、山を上ること十八丁にして屋島寺あり、山をうしろの方へ下れば壇の浦なり、坂口の木立ある中に佐藤四郎兵衛が碑あり、八栗山は五劔山とてさかしき峯聳り、源平合戰ありし八島の内裡と聞えしも、跡は鹽屋作りならべたり、田中に門のかたちせし所あり。

麥の穂と立や内裡の門はしら
   蝶夢

『四國に渉る記』

 大正12年(1923年)10月29日、高浜虚子は駕籠に乗って屋島に登る。

   屋島

駕籠屋呼ぶ太鼓叩くや草紅葉

      十月二十九日、五時過宇野線に乘り換へ、連絡船で八時頃高松著、
      入江、春雷、公羽、婆羅等に迎へられ、春雷居に至り一睡。それよ
      栗林公園に行き、中野營三君を訪ね、電車で屋島に赴く。途中、
      駕籠に乘つて屋島に登る。


 昭和6年(1931年)10月29日、与謝野寛・晶子夫妻は屋島寺を訪れている。

竝竝に平家のすゑの隱るなど云はぬ屋島の悲しかりけれ

平家ゆゑ名のあはれなるここちして遍路と入りし屋島寺かな

「緑階春雨」

 昭和10年(1935年)6月5日、北原白秋は屋島を駕籠で巡った。

さて着のみ着のまゝになるとさばさばして愈々屋島へ、ケーブルカーで登山となつた山上を私は駕籠で、荒木・夫人・令嬢、脇さん・那紀黄・赤城、徒歩で随いて一巡、談古嶺で土器投げをしてゐるのを修學旅行の女學生等に發見せられ、サイン。責めにあひ、はふはふの體にて、脱出駕籠の後からまた他の校が二三町追つかけて來る。一首。

   六月五日屋島に來りひた暑し少女が群に我れかこまれぬ

『薄明消息』(南方旅行の話)

 昭和13年(1938年)10月21日、高浜虚子は屋島に遊ぶ。

歴史悲し聞いては忘る老の秋

      十月二十一日 屋島に遊ぶ。


 昭和14年(1939年)10月25日、山頭火は小豆島から高松に渡り、屋島から志度寺長尾寺大窪寺を巡拝している。

 昭和24年(1949年)、中村草田男は屋島を訪れている。

歴史は胸裡に冬の屋島に木々深し


 昭和29年(1954年)4月17日、水原秋桜子は屋島寺を訪れている。

   屋島寺の庭は凝灰岩露出して、雪
   を敷けるが如し。雪の庭と称す

花すぎし古雪と見つ雪の庭


 昭和36年(1961年)11月、石田波郷は松山から帰京の途中、高松、屋島に遊ぶ。

   屋島

秋行くとオリーブ林銀の風

黄落や覗けば屋島合戰圖

『酒中花』

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