2017年愛 媛

西ノ下大師堂〜高浜虚子の句碑〜
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 明治7年(1874年)2月22日、高浜虚子は愛媛県温泉郡長町新町(現:松山市湊町)に旧松山藩士池内(いけのうち)諧政忠の五男として生まれる。柳原西の下に移り住む。

 松山市北条の県道179号湯山北条線(今治街道)沿いに西ノ下大師堂がある。


 大正3年(1914年)1月11日。高浜虚子は風早、西ノ下に行く。

一月十一日。風早、西ノ下に行く。今は畑になつている旧居の跡
を訪ふ。大師堂に廻り夕帰松。


 大正6年(1917年)、高浜虚子は風早柳原西の下に遊ぶ。

同十五日――兄の法事を済ませた翌日――風早柳原に向ふ。雨。
川一つ隔てたる西ノ下は余が一歳より八歳迄郷居せし地なり。家
空しく大川の堤の大師堂のみ存す。其堂の傍に老松あり。

 此松の下に佇めば露の我

翌十六日。鹿島に遊ぶ。何十年振りなり。

 鹿を見ても恐ろしかりし昔かな

 鹿の舌秋草の上に赤く動く


西ノ下大師堂に虚子の句碑があった。


この松の下にたゝすめば露のわれ

道の辺に阿波のへんろの墓あはれ

昭和3年(1928年)10月、建立。

 昭和5年(1930年)10月25日、虚子は酒井黙禅に今治まで送られ、句碑の前を通り過ぎた。

 七時過ぎ、松山驛から乘車。酒井黙禪君今治まで見送つてくれる。風早の大師堂の大松の下に私の「此松のもとに佇めば露の我」の句碑が立つてをるのを未だ見たことがないので、見ようと思つたが、句の話をしてをるうちに通つてしまつた。氣がついた時にはすでに鹿島が目の前にあつた。腰折、惠良の諸山が見える。幼い頃、朝夕目にあつた山だ。

「旅だより」

 昭和10年(1935年)4月25日、高浜虚子星野立子は句碑を見に行く。

四月二十五日。風早西の下に句碑を見、鹿島に遊ぶ。伊予松山、
黙禅邸、松山ホトトギス会。

 ぼうたんを褒めて鹿島にわたりけり

 重き荷を負うて遍路のかゞみ行く

 鹿の峰の狭き縄手や遍路行く

 道のべに阿波の遍路の墓あはれ

 島々に取り囲まれて春の海


 正宗寺、蓮福寺、お築山へと墓参。池内の伯父の新し
い墓にしみじみと額く。午後は風早へ。風早といふのは
松山のはづれの中々遠い所だつたけれど、途中々々をい
ろいろときかされて行つたために少しも退屈せず、退屈
するどころか自動車が速すぎるとさへ思つた。妙見様、
粟井阪、と来ると、丁度松山と風早の真中迄来たことに
なるのださうな。鹿野峰、別府、北条といふ順になる。
別府村からやがて高縄山を右に見て行くうちに漸く車が
止る。こゝが風早の西の下といふところださう。

  この松の下に佇めば露のわれ   虚子

の細長い句碑が大松の下に遥かの海風に吹かれながら立
つてゐるところだつた。何のためにこんな場所に車をと
めて下り立つたのかわからないのでじろじろ見る人もあ
るけれど、そんな人もこの街道筋には二三人位なもので、
あたりは全く静まりかへつてゐた。行手に古さうな松並
木が見えはじめてゐる。それ迄は両面は一たいの畑で、
今丁度青麦が穂に出てゐるところだつた。本当に静かだ。

  青麦に沿うて歩けば懐かしき

 句碑の下に戻る。

  露の句碑の下に憩へる遍路かな

  遍路ふと憩ひしまゝに見上げけり

  松蝉や幼き頃のものがたり


 この句碑は愛媛県温泉郡河野村柳原西ノ下の大師堂脇老松の根方に建っている。昭和三年十月の建設で、高さ約十尺、幅厚さともに一尺三寸位の柱状自然石、素朴な茶褐色の山石の碑である。碑陰には「高浜虚子君嘗て其幼時を過せし我西の下の地を見んとて大正六年十月十五日帰省の序を此地に来り遊ぶ 今其時になれる句を乞ひ石に刻してこの松の下に建つ 干時昭和三年十月中浣」と記されて居る。

 虚子翁は明治七年二月二日、伊予松山長町の新丁(今の同市港町四丁目)に生れたが、翌年、親父池内庄四郎氏がこの西ノ下に郷居帰農することになったので、共にここに移り、数え年八歳の時までこの地に育った、忘れ難い西ノ下の風光や、幼い日の思い出については、「虚子自伝」の冒頭に語られて居るばかりでなく、しばしばホトトギス誌上などにも筆を執って居られる。


昭和30年(1955年)、「道の辺の」の句を追刻。

 「この松の下にたゝすめば露のわれ」は、「ホトトギス」大正6年12月号に発表した句で、兄の法事のために帰省したとき、懐かしい西ノ下を詠んだもの。この句碑は、虚子の句碑第1号。

 「道の辺に阿波のへんろの墓あはれ」は、昭和10年4月25日、虚子は四国遍路の途上で病没した遍路の墓があるこの西ノ下大師堂を訪れ、鹿島に遊んだ。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

「高浜虚子之像」があった。


 昭和15年(1940年)3月24日、虚子は西の下の旧居を訪れた。

   風早西ノ下、舊居のあと

こゝに又住まばやと思ふ春の暮

      三月二十四日。風早西ノ下、舊居のあとにて。


左側面に虚子の句が刻まれている。


ここにまた住まばやと思ふ春の暮

 昭和15年、父の五十年忌のために松山に帰省、旧居跡を訪ねたときの感慨を詠んだもので、句は「高浜虚子胸像」の基壇にはめ込まれた石板に刻まれている。句の後に「旧居の跡を訪ねて 七十六歳虚子」とある。胸像は、昭和62年3月に建立。

 なお、西ノ下大師堂の北にある近くの空き地に「虚子先生生家池内邸址」の碑が建てられている。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

 昭和18年(1943年)3月29日、高浜虚子星野立子と西の下へ。

三月二十七日。清水東山子に会す。愛媛県立図書館にて俳諧文庫
会結成式。終つて講演会。又続いて子規座談会。廿八日、横河原
行き、見奈良の愛媛療養所に於て俳句批評。其夜は宿にて末子、
月影、浜子、晋平、立子と会食。三月二十九日。銀行集会所の午
餐に招かる。午後風早の西の下に赴く。豊田、猪野等に迎へられ
猪野宅招宴。

 麗かにふるさと人と打ちまじり

 風強し防風摘まんと浜に出る

 末子先づ防風見つけてうれしけれ

 ふるさとに防風摘みにと来し吾ぞ

 砂浜を斯く行く防風摘みながら

 防風積む波のさゝやき聞きながら

 何事も春や昔と思ほゆる


 三月二十九日。風早・西の下。

  強東風になびき伏す麦なつかしみ

  今日は昨日のつゞき防風つみ

  春日濃しいざなはれつゝ又歩く

  ひざまづき拾ひてみたり松ぼくり

  防風のありと手招く人遠く


虚子の松


「昭和天皇御手植」だそうだ。

 昭和33年(1958年)、中村草田男は虚子の句碑のことを書いている。

 「西ノ下」の地は、松山市の北西端からなだらかな山ろくの街道をすすんで、バスで一時間余りの行程、北条という港町から約半里の手前にある。すでに海岸に程近く小さい島ではあるが、名前どおりの神社がそなわり、全島にシカの生息する麗しい鹿島の姿も指呼の間に存在する。虚子師の生家がその端に位していた畑中の四軒家は後年とりこぼたれてすでに跡をとどめないが、いくさごっこ鬼ごっこを初めとしての、幼童の遊びと、あらゆる年中行事の思い出の中心の場所であった大師堂とその傍の何百歳かを経た巨松とは、昔さながらのおもかげをひっそりと残している。そして、

   此松の下に佇めば露の我

の虚子師第一句碑は、この場所のこの巨樹の下を卜して、旧友等数人のねんごろな手によって建立されたのである。碑石は、付近を海へと向かって注いでいる川の川上、雄御(おんご)山のから切り出してきた自然石であるそうで、茶かっ色の高さ約十尺、幅厚さともに一尺余の柱状をなしている。

「高浜虚子――文学碑めぐり

 昭和36年(1961年)5月8日、星野立子は高浜虚子の句碑を見に行く。

 北条を過ぎ、西ノ下に自動車を下りる。村上杏史、波多野二美、
猪野春陽、久保田氏が松の下に立っておられた。

この松の下にたゝずめば露のわれ   虚子

 句碑はひょろひょろと昔のままに立っていた。道巾が広くなった為に、いつも休んだ茶屋は取払われて土台石が残っているばかりであったことが一番淋しいと思った。近くの猪野さんのところに立寄り先年亡くなった先代の位牌に線香をあげる。時代が移ったことをしみじみ思う。


 昭和41年(1966年)6月7日、星野立子は再び高浜虚子の句碑を見る。

 小島に心を残しつつ再び波止浜に戻り、バスで西ノ下へ向う。バスは冷房である。菊間あたりは瓦を焼いている煙が立ちのぼり、なつかしい名の高繩山、腰折山などを左に見ながら西ノ下に着いた。皆々句碑をかこみ、私等の話に耳を傾けて句作。通夜堂で句会。

心今昔に戻り青嵐

まだ遍路見ず埃立つ道をゆく

薫風や思ひゐしより松老いて


 昭和44年(1969年)9月、富安風生は西の下を訪れている。

   西の下。師の“この松の下”の句、“道の辺に阿波の遍路”の
   句、心にあれば

その松とその道のべの昼の虫

墓撫でて吾も俳諧の一遍

『米寿前』

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