天正19年(1591年)10月上旬、全国の諸大名たちが名護屋に到着し、城普請に取り掛かる。築城に際して黒田孝高が縄張りを、黒田長政、加藤清正、小西行長、寺沢広高らが普請奉行を命じられたそうだ。 |
今から約400年前、全国統一を果たした豊臣秀吉は、朝鮮半島と中国大陸をも侵略しようとして1592年〜1598年にかけて文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)を起こしました。この時、秀吉が配下の諸大名に命じて出兵基地として築かせたのが名護屋城です。総面積約17万uに及ぶこの巨城と各地から参集した大名の陣屋の跡は、『名護屋城跡並びに陣跡』として、国の特別史跡に指定されています。 特別史跡『名護屋城跡並びに陣跡』は、安土桃山時代の文化、建築、生活などを知ることのできる貴重な文化財であると共に、日本と東アジアの国々との不幸な出来事を語り伝える歴史の証人でもあります。 当時では大坂城につぐ規模をもつていた名護屋城の構えは基本的に3段の渦郭(かかく)式といえるもので、天守台のある本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸、弾正丸、東出丸を置き、北方下段には遊撃丸、水手曲輪(みずのてくるわ)、さらにその下段に山里丸と台所丸を配置しています。門は、水手口ほか5カ所あり、北面には通称鯱鉾池といわれる堀もわたしています。
佐賀県教育委員会 |
昭和5年(1930年)5月、北原白秋は九州に旅行。名護屋城跡を訪れている。 |
名護屋城址 麦黄ばむ名護屋なごやの城の跡どころ松蝉が啼きて油蝉はまだ 韓(から)の空の見はらしどころここにして太閤はありき海山の上に
『夢殿』 |
昭和7年(1932年)1月24日、種田山頭火は名護屋城跡を訪れている。 |
――遊覧地じみてゐないのがよい、石垣ばかり枯草ばかり松ばかり、外に何も残つてゐないのがよい、たゞ見る丘陵の起伏だ、そして一石一瓦ことごとく太閤秀吉を思はせる、さすがに規模は太閤らしい、茶店――太閤茶屋――たゞ一軒の――老人がいろいろと説明してくれる、一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸、大手搦手、等々々、外濠は海、内濠は埋つてゐる、本丸の記念碑(それは自然石で東郷元帥の筆)がふさはしい、天主台は十五間、その上に立つて、玄海を見遙かして、秀吉の心は波打つたゞらう、その傍にシヤンがつゝましく控へてゐたかも知れない。 後方の山々には日本諸国の諸大名がそれぞれ陣取つて日本魂を発露したゞらう。 |
この句は、昭和8年(1933年)に青木月斗(1879〜1949)が名護屋城を訪れた際に詠んだものです。 月斗は俳誌「同人」主宰するなど、関西俳壇の重鎮として活躍し、関西から九州まで幅広く足跡をしるし、佐賀にもしばしば足を運んでいます。この句碑は昭和15年(1940年)に月斗派の同人達によって建てられました。 |
文禄2年(1593年)に明国の講和使節(遊撃将軍)が滞在し、もてなしを受けた曲輪といわれています。 平成元年度と2年度(1989〜1990年)の石垣修理に伴う発掘調査で、門礎石・石段・玉砂利敷が新たに発見されました。特に船手門や天守台北側からは金箔瓦が出土しています。 遊撃丸や天守台の石垣は、自然石を半分に割り、割った面を表面に見せる“打込みはぎ”の石積が顕著です。石垣崩壊防止のため、危険個所では解体修理や新しい石の補充や植栽を行い、当時の石垣の様子が推定されるような整備をしています。 |
昭和26年(1951年)10月26日、荻原井泉水は名護屋城址を見て、呼子へ。 |
昭和33年(1958年)、高野素十は名護屋城趾を見る。 |
呼子 金丸旅館 金丸孤舟追悼句会 名護屋城趾を見る 枯草の甚しとも思はざる
『芹』 |
昭和35年(1960年)11月1日、高浜年尾は名護屋城址にて吟行。 |
十一月一日 空路板附著。唐津に向ひ名護屋城址吟行 壱岐島を隔て対馬も見ゆ。呼子泊り 本丸の桜は既に枯木にて 行秋の城址に木々の風を聞く 船音の呼子の夜長杯重ね 壱岐対馬見え行秋の城址かな |
昭和42年(1967年)11月10日、星野立子は名護屋城へ。 |
十一月十一日 七時半朝食。八時四十分船。快晴。鯖のみりん干 が沢山に道端に見かけられる。 二雙の船に分乗して田島神社へ向う。さびれた小さな島である。 その中に古い鳥居がよい。再び船で戻り、名護屋城へ。田辺虹城さ んの御案内に預る。城垣が心を引く。 |
大手坂小春の蝶に從きのぼる 鵙たける名護屋城址に今我等 小春凪我も静かにしてゐたし 城址去る栴檀の実の坂下りて |