昭和30年(1955年)5月15日、高浜虚子は高浜年尾と星野立子を伴い柳川を訪れる。 |
五月十五日 柳川行 夏山や肥筑平野も漸くに 柳川の大木の夏柳かな 松涛園(お花、立花邸) 拡ごれる春曙の水輪かな |
柳川は芽柳に又時雨来る 柳川の柳のみどり松のみどり 春水の縦横城内村といふ この池のやがて引くべき鴨ならめ やがて引くべき鴨鳴く夜を泊りかな |
柳川川下りは3月1日より通常営業。3月20日は団体でいっぱいだったのでキャンセル。今日は、あらためて柳川川下りをする。 |
この水門は、城内に入る唯一の水門で、城の防御用に築造されました。万一の場合はこの水門を閉め、上流の矢部川の堤防を切り崩して水を流すと、城内(しろうち)・柳河・宮永を残して周辺は水びたしとなり、全く島のような状況になったと言われています。このような壮大な水の仕掛けをもっていたことから、柳川城は水の城を呼ばれ、名城のひとつに数えられました。水門の規模は、両壁の幅2.6m、長さ15.7m、高さ3.8mで、平均50cmの角石を積み重ねて造られています。また基礎には20〜30cm、厚さ15cmの板が敷並べてあり、堰板つき石組み水門です。 水門の右手には、俳壇の巨匠高浜虚子が柳川を訪れた際に呼んだ句「ひろごれる春曙の水輪かな」を刻んだ句碑が建立されています。 |
廣ごれる |
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春曙の |
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水輪哉 |
柳川市新町大水門の畔に昭和三十年八月二十二日この句碑が建立された。碑陰には「昭和三十年五月十五日来遊同年八月二十二日 柳川ホトトギス会建之」と刻まれて居る。即ちかの「わびの旅」の途次の吟で、虚子翁来遊から僅かに三ヵ月のうちに出来た早素い建碑であった。碑は曾て肥前多良岳から噴出された俗に「帆崎石」と称するもので、この地を郷里にもつ北原白秋の帰去来の詩碑と同一石材である。高さ三尺三寸、幅三尺五寸、厚一尺五寸の碑が高さ一尺五寸、幅六尺、奥行三尺の台石の上に据えられて居り、背後には水に面した名物の楊柳が風にそよいで居る。刻字の線は細いが、画仙紙三ッ切りの小ぶりな拓本にとっても、まことに鑑賞に値いする。 |
十一月十二日 睡眠不足が解消され、爽快になる。川下りの船に お花邸のお庭先から乗る。水郷らしい情緒をはじめて味わった。 |
広ごれる春曙の水輪かな 虚子 |
の句碑が意外なところにあるのを見た。この句は先年、このお花に 父のお伴をして泊った折に作られた句であって、お花の庭の広池を 写生したものであることは私丈でなく、誰でもその日いた方は知っ ている筈なのにと思った。十一時締切で一と句会。 |
留守の間に萩叢刈られ惜しかりし 布袋草舟路の波にかた寄りて 麥ぼこり暫らくかむり舟すゝむ 柳川の初冬の朝の舟だまり 舟ゆくや末枯の野を見上げもし |