2013年青 森

厩 石〜松前街道終点之地〜

 国道280号(松前街道)を行き竜飛岬に向かうと、外ヶ浜町三厩本町に「厩石」があった。


「厩石」


厩石の由来

 文治5年(1189年)、兄頼朝の計らいで、衣川の高舘で藤原秦衝に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた!

 藤原秀衡の遺書(危険が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし)のとおり北を目指し、この地に辿り着いた。

 近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。そこで義経は海岸の奇岩の上に座して、3日3晩日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるよう一心に祈願した。

 丁度満願の暁に、白髪の翁が現れ、”3頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい”と云って消えた。翌朝巌上を降りると岩穴には3頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることが出来た。

 それから、この岩を廐石、この地を三馬屋(三廐村)と呼ぶようになりました。

「厩石」の下に源義経龍神塔と静御前龍神塔があった。


三廐は「義経渡道之地」というわけである。

今や青森は北海道通ひの要津なるが、これ明治以後の事也。その前函館開くるに及びて、恐山半島の大間崎が北海道通ひの一要津なりしが、それよりもずつと古く、三廐は北海道通ひ唯一の要津なりき。吉田松陰はこゝまで来り、北海道へ渡らずに引返したり。当時三廐人士は松陰の名を知らざりしを以て、その筆跡を伝へずと聞く。若しも源義経が北海道に渡りたりとせば、必ずやこゝより船出せしならむ。ゆかしき土地かな。

「陸奥の海岸線」(龍飛岬)

三廐は「松前街道終点之地」。


 承応2年(1653年)の津軽領道程帳で今別町が終点であった松前街道は、享保2年(1717年)の頃には三厩迄開削されたらしく、これ迄小泊湊から渡海していた幕府巡見使一行は初めて三厩湊を経由、渡海している。藩の公簿に見る今別〜三厩間の道は、石路、中石路とあり、他村の道のような岩難所、大石路、登難所などと表現した難所は少いが、波打際の磯辺路であった。幅員2メートル余のこの道を吉田松陰、頼三樹三郎、高山彦九郎などが駆け抜けていったのである。

郷土史家 赤平豊一撰

天明8年(1788年)7月11日、菅江真澄は三厩に着いた。13日、松前に渡る。

十一日 松前の島の、浪の上に遠う見やられて、しほせさしのぼる、あさ日のてりみちたるころたちて三馬屋の浦につきたり。かの、みたりのおほんまふけとて、三のふなよそひして磯近くつなぎ、脚艇などいつくしう見えたり。此浦やかたに神明のみやどころあり。養信庵といふいほりあり。御厩石のほとりよりのぼりて観世音の堂あり。

『率土か浜つたひ』(そとがはまづたい)

 寛政12年(1800年)5月10日、伊能忠敬は第1次測量で三厩に着いた。

 寛政13年(1801年)11月3日、伊能忠敬は第2次測量で三厩へ。11月5日、享和に改元。

 享和2年(1802年)8月15日、伊能忠敬は第3次測量で三厩に到着。

 文政2年(1819年)12月19日、松窓乙二は素月尼の遺骨を携えて三厩に着いた。

   師走中の九日、三厩にて二句。

よる浪のこゝぞ暦の軸はづれ

降雪を仕事にはやく懸り舩


 嘉永5年(1852年)3月5日、吉田松陰は小泊から算用師峠を越えて三厩に出た。

 海浜に出づ。是れを三厩と為す。俗に伝ふ、義経松前に騎渡するにここよりすと。戸数百許り、湾港は舟を泊すべし。松前侯の江戸に朝するにも、舟に乗りて亦ここに到る。


 明治40年(1907年)5月18日、河東碧梧桐は雨の中を三厩にやってきた。

五月十八日。天気不定。烈風。

雨中出発、一里半を歩んで三厩着。


碧梧桐は三厩の名所「義経寺」を訪れているが、私は先を急いだ。

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