これまでの温泉
道後温泉「ふなや」
明治28年(1895年)、正岡子規は病気療養のために松山に帰郷、夏目漱石の下宿愚陀佛庵に同居した。 明治28年(1895年)10月6日、子規が漱石と散策の折に花月亭(現在の「ふなや」詠風庭)で詠んだ句である。 明治29年(1896年)4月、夏目漱石は熊本の第五高等校に赴任。 |
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泉質はアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)。泉温46.0℃。pH9.0。 |
昭和6年(1931年)11月2日、与謝野鉄幹・晶子夫妻が「ふなや」に宿泊している。 昭和12年(1937年)7月、富安風生は道後温泉「ふなや」に泊まっている。 |
道後温泉鮒屋 予の国に古りたる温泉宿凌霄花
『松籟』 |
漂泊の俳人、種田山頭火は昭和14年10月1日、遂に念願の四国遍路を果たし松山に着き、御幸寺山の麓に一草庵を結んだ。 流浪の疲れた身と魂を静かに休めるべきところを松山に求め御幸寺山のみどり、道後温泉の湯、石手川の水、そして山の辺りの花咲く里は山頭火の晩年を美しくするには充分であった。 この句は道後温泉で詠んだもので山頭火の直筆である。山頭火はふなや庭園の鴉渓をよく散策し、大正3年10月、彼の師荻原井泉水がこのふなやに宿している。「大きく落着いた感じのする宿である」と記している。 そんな縁で平成7年7月21日句碑を建立。 裏面の「ほんにあたゝかく人も旅もお正月」の句は道後周辺で詠んだ句である。
揮毫 高橋正治 文責 |
昭和18年(1943年)3月26日、高浜虚子は鮒屋に泊まり、赤十字病院の海軍傷病兵を慰問。 |
三月二十六日。廿四日神戸より錦丸乗船道後鮒屋にあり。連日墓 参、故旧訪問、俳友招宴等。此日赤十字病院海軍傷病兵慰問。傷 病兵に此日某病院にて。 ふるさとに花の山あり温泉あり |
昭和21年(1946年)11月11日、虚子は立子と鮒屋に泊まる。 |
昭和26年(1951年)9月14日、虚子は立子と鮒屋に着き、石手寺に行く。 |
九月十六日 道後鮒屋著 石手寺に行き地蔵院に小憩住僧におく る こゝに住み泥鰌鮒など友として |
九月十六日。六時四十分高浜港に著く。道後の鮒屋へ。 去年来た時は鮒屋は進駐軍の常宿になつてゐて、私等は 泊ることが出来なかつたのであるが、今度は又以前の通 りに戻つてゐた。若いお神さんが表立つて働いてゐるの が違ふ丈で、あとはあまり以前と変化はない。やがて先 代のお神さんが出て来て挨拶をする。 |
昭和27年(1952年)5月、富安風生は道後温泉「ふなや」に泊まる。 |
この宿尓汝もあ万え鳴く雨蛙
『晩涼』 |
昭和27年(1952年)5月25日、水原秋桜子は「鮒屋」に泊まっている。 |
夜更けて道後温泉鮒屋着 巨き犬立ち迎へたる五月闇
『残鐘』 |
昭和54年(1979年)1月、『星』創刊、主宰。 |
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平成11年(1999年)4月、『星』20周年記念に建立。 |
昭和46年(1971年)、水原秋桜子は再び「ふなや」泊まっている。 |
道後、ふなや 二句 雨後の川濁りてあらふ庭躑躅 紫陽花と茅葺の門を残しけり
『緑雲』 |