旅のあれこれ



夏目漱石ゆかりの地

漱石の句碑  ・ 漱石の句

東京の漱石  ・ 松山の漱石  ・ 福岡の漱石  ・ 熊本の漱石

 慶応3年(1867年)1月5日(陽暦2月9日)、江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれる。

 明治11年(1878年)、市ヶ谷学校から錦華小学校(現:お茶の水小学校)に転校。

 明治12年(1879年)、東京府第一中学正則科(現:都立日比谷高校)に入学。

 明治14年(1881年)4月、漢学塾二松学舎第三級第一課に入学。

 明治25年(1892年)4月5日、本籍を東京より吹上町浅岡仁三郎方に移す。

 明治25年(1892年)5月、東京専門学校(現:早稲田大学)の講師となる。

 明治25年(1892年)、正岡家を訪問し、松山鮨を食べた。

 明治28年(1895年)4月7日、松山に向け東京を発つ。

 明治29年(1896年)4月、熊本の第五高等学校講師となる。

 明治32年(1899年)9月1日、夏目漱石は阿蘇登頂を試みたが、嵐に遭い断念。

 明治35年(1902年)9月19日、正岡子規は34歳没。

 明治36年(1903年)4月、第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。

 明治38年(1905年)1月より翌年8月まで夏目漱石は『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に連載。

 明治39年(1906年)、『坊っちやん』『ホトトギス』第九巻第七号(4月1日発行)の「附録」(別冊ではない)として発表。。

 明治39年(1906年)10月、雑誌『中央公論』に小説『二百十日』を発表。

 明治41年(1908年)3月23日、塩原事件。森田草平を夏目漱石が引き取り2週間自宅に匿う。

八時半頃森田白楊君が来た。平塚明子といふ女と二人日光の山に逃げた事について、二週間前に各新聞に浮名を謳はれた人……その故か、随分と意気阻喪して居た。然し自分は怎してか此人が昔からなつかしい。今は夏目氏の宅に隠れて居るとのこと。(新詩社にて)


 明治41年(1908年)9月1日、朝日新聞に『三四郎』を連載。

 明治41年(1908年)9月13日、「福猫」が亡くなる。

 明治42年(1909年)3月、寺田寅彦はベルリン大学に留学。留守中、オルガンは夏目家に預けられた。

 明治43年(1910年)8月6日、夏目漱石は門下生松根東洋城の案内で修善寺温泉の菊屋旅館(別荘)を訪れた。8月24日、漱石は大量吐血して人事不省の危篤状態に陥る。

 大正3年(1914年)6月2日、本籍を早稲田南町七番地に移す。

 大正5年(1916年)12月9日、漱石没。

文豪夏目漱石在籍地

(北海道岩内郡岩内町)

大梅寺〜『草枕』の文学碑〜

(宮城県仙台市)

大宮公園

(埼玉県さいたま市)

誕生寺

(千葉県鴨川市)

鋸 山

(千葉県富津市)

保田海岸

(千葉県安房郡鋸南町)

東慶寺〜夏目漱石参禅百年祈念碑〜

(神奈川県鎌倉市)

光則寺

(神奈川県鎌倉市)

材木座海岸〜『こころ』〜

(神奈川県鎌倉市)

不動滝〜『明暗』〜

(神奈川県足柄下郡湯河原町)

修禅寺

(静岡県伊豆市)

上林温泉

(長野県下高井郡山ノ内町)

漱石の三四郎ゆかりの宿

旅館「角屋」の跡地(愛知県名古屋市)

子規母堂令妹住居跡

(愛媛県松山市)

羅漢寺

(大分県中津市)

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