石川啄木


『啄木日記』

明治35年(1902年)

十月卅日

 朝。故山は今揺落の秋あはだゞしう枯葉の音に埋もれつゝあり。霜凋の野草を踏み泝瀝の風に咽んで九時故家の閾を出づ。愛妹と双親とに涙なき涙にわかれて老僕元吉は好摩ステーシヨンまで従へたり。

 かくて我が進路は開きぬ。かくして我が希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ。雲は高くして巌峯の巓に浮び秋装悲しみをこめて故郷の山水歩々にして相へだゝる。あゝこの離別の情、浮雲ねがはくは天日を掩ふ勿れよ。遊子自ら胸をうてば天絃凋悵として腔奥響きかすか也。

十一月一日

 愁ひの一夜は那須野が原に明けぬ。たゞ見る落秋の装ひ寂々として目もはるに大野の草雲に入るほとりかすかに筑波連山の靄をきて立てる見ゆ。曙の色わづかに東天にほのめくと見ればやがて雨そぼそぼと降り来ぬ。

 うつゝなの想ひにのみ百四十里をすぐして午前十時上野駅に下車し雨中の都大路を俥走らせて十一時頃小石川なる細越夏村兄の宿に轅下させぬ。

十一月三日 天長節、曇天。

 鉄幹氏へ上京報知す。

十一月四日

 鉄幹氏より来翰。晶子女史御子あげ玉ひし由。

十一月九日

 今日は愈々そのまちし新詩社小集の日也。

 一時夏村兄と携へて会場に至れば、鉄幹氏を初め諸氏、すでにあり。

 小集のかへり相馬御風兄と夏村兄と三人巷街に袖をつらねて散歩す。

十一月十日

 昼食を了へ、早忽として廬を出でゝ渋谷の詩堂を訪はんとて出づ。

 女子大学の前より目白ステーシヨンに至り直ちに乗車して渋谷に到る、里路の屈曲多きを辿ることやゝ暫らく青桐の籬に沿ふて西に上り詩堂に入る。

 先づ晶子女史の清高なる気品に接し座にまつこと少許にして鉄幹氏完爾として入り来る、八畳の一室秋清うして庭の紅白の菊輪大なるが今をさかりと咲き競ひつゝあり。

 談は昨日の小集より起りて漸く興に入り、感趣湧くが如し。かく対する時われは決して氏の容れられざる理なきを思へり。

明治37年(1904年)

一月中

十三日

 東亜の風雲漸く急を告げて、出師準備となり宣戦令起草の報となり、近来人気大に引き立つ。戦は遂に避くべからず。さくべからざるが故に我は寧ろ一日も早く大国民の奮興を望む者なり。

十四日

 田村姉より来書あり。余がせつ子と結婚の一件また確定の由報じ来る。待ちにまちたる吉報にして、しかも亦忽然の思あり。ほゝゑみ自ら禁ぜず。友と二人して希望の年は来りぬと絶叫す。

二月中

三日。

 この日、せつ子との事、母行きて、かの人の父母なる人と形式の定め事すべき日なりき。

七日、

 この日の新聞、日露の局面急に激甚なるを告ぐ。村内の予後備兵も招集せらるゝときく。手套は投げられたり。天の与へたる時は来りぬ。快心この一時。

九日、

 新聞、急鐘を乱打す。御前会議の結果、閣臣皆断、天皇宜しと宣へり。大詔煥発両三日中、肉躍る。

十日、

 露艦二隻仁川に封鎖せらるとの報あり。

十一日、

 新紙伝へて曰く、去る八日の夜日本艦隊旅順口を攻撃し、水雷艇によりて敵の三艦を沈め、翌九日更に総攻撃にて、敵艦六隻を捕拿し、スタルク司令官を戦死せしめ、全勝を博したり、と。何ぞそれ痛快なるや。又朝鮮巨済島方面にも海戦ありたる者と云ふ。予欣喜にたへず、新紙を携へて、三時頃より学校に行き、村人諸氏と戦を談ず。真に、骨鳴り、肉躍るの慨あり。

十三日、

 宣戦の詔勅十日午後十時天降す。新紙に掲載。

 露艦四、北海道渡嶋沖に来り、福山を攻撃し、我商船田子の浦丸を沈め、更に我水雷艇によりて三隻撃沈さる。

明治39年(1906年)

三月四日

 父は野辺地が浜にあり。妹をば通つて居る学校の女教師の家に下宿さす事にさす事にして盛岡に残した。母とせつ子と三人、午前七時四十分盛岡発下り列車に投じて、好摩駅に下車。凍てついて横辷りする雪路を一里。町の東側の、南端から十軒目、斎藤方の表座敷が乃ち此の我が一家当分の住居なので。

 十三日に村役場へ出頭、十一日附の、「渋民尋常高等小学校尋常科代用教員を命ず、但し月給八円支給」といふ辞令を受け、翌十四日(土)から尋常科第二学年の教壇に立つことに成つた。我が自伝が、この日、また新らしい色彩に染められた。

〇四月二十一日。晴。土。

 待ちに待つたる徴兵検査が愈々この日になつた。学校をば欠勤。午前三時半に起床、好摩から六時に乗車して沼宮内町に下車、検査場なる沼福寺に着いたのが七時半頃。検査が午后一時頃になつて、身長は五尺二寸二分、筋骨薄弱で丙種合格、徴集免除、予て期したる事ながら、これで漸やく安心した。

 自分を初め、徴集免除になつたものが元気よく、合格者は却つて頗る銷沈して居た。新気運の動いてるのは、此辺にも現はれ居る。

 四里の夜道を徒歩で帰つた。家に着いたのが、十時頃。二階への梯子を這ふて上る程つかれて、足は痛くて動かなかつた。途すがら初鶯、初蛙をきいた。

 一家安心。

〇三十日

 朝電報来る

(廿九日午后三時四十分発)

   イマブジオミナヲウム〇 トキ

 予はこの電報を握つて臥床の中より躍り起きぬ。あゝ盛岡なるせつ子、こひしきせつ子が、無事女の児――可愛き京子を生み落したるなり。予が「若きお父さん」となりたるなり。

 天地に充つるは愛なり。

 予は此日の心地を、いかなる語を以ても表はす事能はず。嬉しさに立つても臥ても居られぬ様なりき。心の底がうすら痒ゆき様なりき。

明治40年(1907年)

 千駄ヶ谷の鉄幹氏には八峰(ヤツヲ)七瀬(ナゝセ)の二女が同時に生れたと喜びがあつた。

三月五日

 午后四時、せつ子と京ちやんとは、母者人に伴はれて盛岡から帰つて来た。妻の顔見ぬこと百余日、京子生れて六十余日。今初めて我児を抱いた此身の心はどうであらうか。二十二歳の春三月五日、父上が家出された其日に、予は生れて初めて、父の心といふものを知つた。

五月四日

 妹は先に老爺元吉と共に好摩に至りてあり。二時四十分頃二人は下り列車に乗りつ。刻一刻に予と故郷とは相違かれり。

 車窓の眺めはいと美しかりき。渋民の桜は漸やく少しく綻びしのみなりしを、北にゆくに従ひて全開なるが多し。

 夜九時半頃、青森に着き、直ちに陸奥丸に乗り込みぬ。浮流水雷の津軽海峡に流るゝありて、夜間の航海禁ぜられたれば、翌午前三時にあらでは出港せずといふ。

五月五日 ――青森――(陸奥丸)――函館

 五時前目をさましぬ。船はすでに青森をあとにして湾口に進みつつあり。風寒く雨さへ時々降り来れり。

 海峡に進み入れば、波立ち騒ぎて船客多く酔ひつ。光子もいたく青ざめて幾度となく嘔吐を催しぬ。初めて遠き旅に出でしなれば、その心、母をや慕ふらむと、予はいといとしきを覚えつ。清心丹を飲ませなどす。

 予は少しも常と変るところなかりき。舷頭に佇立して海を見る。

 五月五日函館に入り、迎へられれ苜蓿社に宿る事となれるは既に記しやり、社は青柳町四十五番地なる細き路地の中、両側皆同じ様なる長屋の左側奥より二軒目にて、和賀といふ一小学校教師が宅の二階八畳間一つなり、これ松岡政之助君が大井正枝君といふ面白き青年と共に自炊する所。

 七月七日節子と京子は玄海丸にのりて来れり、此日青柳町十八番地石館借家のラノ四号に新居を構へ、友人八名の助力によりて兎も角も家らしく取片づけたり、予は復一家の主人となれり、七月中旬より予は健康の不良と或る不平とのために学校を休めり、休みても別に届を出さざりき、にも不拘校長は予に対して始終寛大の体度をとれり、この月の雑誌第七号には予の小説「漂泊」の初め一少部分をのせたり、

八月二十五日

 此夜十時半東川町に火を失し、折柄の猛しき山背の風のため、暁にいたる六時間にして函館全市の三分の二をやけり、学校も新聞社も皆やけぬ、予が家も危かりしが漸くにしてまぬかれたり、吉野、岩崎二君またのがれぬ。

九月十一日

 午前仮事む所に大竹校長を訪ひて退職願を出しぬ。座に橘女史あり、札幌の話をきけり。高橋女史に逢へり。

 午后小林茂君来り、大井正枝君来れり。吉野君と夕方谷地頭に散歩し、浮世床といふ床屋にて斬髪す。

 夜岩崎君宅に招がれて、吉野並木二君も会し、大に飲めり。牛肉と玉葱の味いとうまかりき。予の出立は明後日午后七時の汽車と決しぬ。

九月十二日

 空はれて高く、秋の心何となく樹々の間に流れたり。この日となりて、予は漸やく函館と別るるといふ一種云ひ難き感じしたり。

 朝のうちに学校の方の予が責任のある仕事を済し、ひとり杖を曳いて、いひ難き名残を函館に惜しみぬ。橘女史を訪ふて相語る二時間余。

九月十四日 土

 午前四時小樽着、下車して姉が家に入り、十一時半再び車中の人となりて北進せり。銭函にいたる間の海岸いと興多し、銭函をすぎてより汽車漸やく石狩の原野に入り一望郊野立木を交へて風色新たなり。時に稲田の穂波を見て興がりぬ。

 午后一時数分札幌停車場に着。向井松岡二君に迎へられて向井君の宿にいたる。既にして小林基君來り初対面の挨拶す、夕刻より酒を初め豚汁をつつく。快談夜にいり十一時松岡君と一中学生との室へ合宿す。予は大に虚偽を罵れり赤裸々を説けり、耳いたかりし筈の人の愚かさよ、予は時々針の如き言を以て其鉄面皮を制せり。

 今札幌に貸家殆ど一軒もなく下宿も満員なりといふ、

九月二十三日

 夜小国君の宿にて野口雨情君と初めて逢へり。温厚にして丁寧、色青くして髯黒く、見るから内気なる人なり。共に大に鮪のサシミをつついて飲む。嘗て小国君より話ありたる小樽日報社に転ずるの件確定。月二十円にて遊軍たることと成れり。函館を去りて僅かに一旬、予は又茲に札幌を去らむとす。凡ては自然の力なり。

九月二十七日

 午后四時十分諸友に送られて俥を飛ばし、汽車に乗る。雨中の石狩平野は趣味殊に深し、銭函をすぎて千丈の崖下を走る、海水渺満として一波なく、潮みちなば車をひたさむかと思はる。海を見て札幌を忘れぬ。

 なつかしき友の多き函館の裏浜を思でて、それこれと過ぎし日を数へゆくうちに中央小樽に着す。

十月一日

 朝野口雨情君の来り訪るゝあり、相携へて舎にゆき、白石社長及び社の金主山県勇三郎氏の令弟中村定三郎氏に逢へり。編輯会議を開く。予最も弁じたり。列席したる者白石社長、岩泉主筆、野口君、佐田君、宮下君(札幌支社)金子君、野田君、西村君と予也。予は野口君と共に三面を受持つ事となれり。

十月三十日

 主筆此日予を別室に呼び、俸給二十五円とする事及び、明後日より三面を独立させて予に帳面を持たせる事を云ひ、野口君の件を談れり。

 野口君は悪しきに非ざりき、主筆の権謀のみ。

十月三十一日

 野口君遂に退社す。主筆に売られたるなり。

十一月一日

 此日より三面を主宰す。

 一二日夕刻の汽車に帰り、社に立寄る。小林寅吉と争論し、腕力を揮はる。退社を決し、沢田君を訪ふて語る。

 一三日より出社せず。社長に辞表を送る事前後二通、社中の者交々来りて留むれども応ぜず。

 二十日に至り、社長より手紙あり、辞意を入れらる。

十二月二十九日

 今日は京子が誕生日なり。新鮭を焼きまた煮て一家四人晩餐を共にす。

 人の子にして、人の夫にして、また人の親たる予は、噫、未だ有せざるなり、天が下にこの五尺の身を容るべき家を、劫遠心を安んずべき心の巣を。寒さに凍ゆる雀だに暖かき巣をば持ちたるに。

明治41年(1908年)

一月十九日

 朝起きて顔を洗つてると、頼んで置いた車夫が橇を曳いて来た。ソコソコに飯を食つて停車場へ橇を走らした。妻は京子を負ふて送りに来たが、白石氏が遅れて来たので午前九時の列車に乗りおくれた。妻は空しく帰つて行つた。予は何となく小樽を去りたくない様な心地になつた。小樽を去りたくないのではない。家族を離れたくないのだ。

 白石氏の宅へ行つて次の発車を待ち合せるうちに、初めて谷法学士に逢つた。才子肌の薄ツペラな男。午前十一時四十分汽車に乗る。雪が降り出した。

一月二十

 曇天。十時半岩見沢発。途中石狩川の雪に埋もれたのを見た。神居古譚で夏の景色を想像した。午后三時十五分当旭川下車、停車場前の宮越屋に投宿。

 旭川は小さい札幌だ。戸数六千、人口三万、街衢整然として幾百本の電柱の、一直線に並んでるのは気持がよい。北海旭新聞を訪問した。

一月二十一日

 午前六時半、白石氏と共に釧路行一番の旭川発に乗った。程なくして、枯林の中から旭日が赤々と上った。空知川の岸に添うて上る。この辺がいわゆるもっとも北海道的な所だ。

 石狩十勝の国境を越えて、五分間を要する大トンネルを通ると、右の方一望幾百里、真にたとうるに辞(ことば)なき大景である。汽車はうねうねしたる路を下って、午后三時半帯広町を通過、九時半この釧路に着。

 停車場から十町ばかり、迎えに来た佐藤国司氏らと共に歩いて、幣舞橋というを渡った。浦見町の佐藤氏宅に着いて行李をおろす。

一月二十四日

 寒いこと話にならぬ。今日からまず三面の帳面をとる。日影君から五円をかりて、硯箱や何やかや買って、六時頃帰宿。社長の招待で編集四人に佐藤国司と町で一、二の料理店○コ喜望楼へ行った。芸者二人、小新に小玉、小新は社長年来の思い者であるという。編集上のこと何かと相談した。

二月二日

 愈々今日の日曜日は我社新築落成式だ。早朝出社して、編輯局を装飾するやら、福引の品物を整理するやら。

 日景君から借りた羽織袴を着る。一時頃から来賓が来た。予は先発隊となつて宴会場なる喜望楼に行き、席を作つて準備して居ると、四時に開会。来会者七十余名に芸妓が十四名。福引は大当りで、大分土地の人を覚えた。九時散会、小新の部屋で飯を喰ふて帰れば十一時。

二月二十四日

 九時頃、衣川子を誘ひ出して鶤寅亭へ飲みにゆく。小奴が来た。酒半ばにして林君が訪ねて来て新規蒔直しの座敷替。散々飲んだ末、衣川子と二人で小奴の家へ遊びに行つた。小奴はぽんたと二人で、老婆を雇つて居る。話は随分なまめかしかつた。二時半帰る。

 小奴と云ふのは、今迄見たうちで一番活溌な気持のよい女だ。

二月二十九日

 釧路へ来て茲に四十日。新聞の為には随分尽して居るものの、本を手にした事は一度もない。此月の雑誌など、来た儘でまだ手をも触れぬ。生れて初めて、酒に親しむ事だけは覚えた。盃二つで赤くなつた自分が、僅か四十日の間に一人前飲める程になつた。芸者といふ者に近づいて見たのも生れて以来釧路が初めてだ。之を思ふと、何といふ事はなく心に淋しい影がさす。

 然しこれも不可抗力である。兎も角も此短時日の間に釧路で自分を知らぬ人は一人もなくなつた。自分は、釧路に於ける新聞記者として着々何の障礙なしに成功して居る。噫、石川啄木は釧路人から立派な新聞記者と思はれ、旗亭に放歌して芸者共にもて囃されて、夜は三時に寝て、朝は十時に起きる。

 一切の仮面を剥ぎ去つた人生の現実は、然し乍ら之に尽きて居るのだ。

三月三日

朝、横山君が訪ねて来て、今夜この下宿へ来る事に決定。

 編輯は早く締切る。日景主筆が今暁四時無事鉄道操業視察を終つて帰社したので、五時から鶤寅亭に慰労会を開いた。南畝氏を初めとして、社中同人一同、小南、衣川、カン(※サンズイ+「甘」)水に予。校書は小蝶、小奴、ぽんた、後で妙子といふのも来た。小奴は予の側に座つて動かなかつた。

 酔ふて九時半頃散会。出る時小奴は一封の手紙を予の手に忍ばした。裏門の瓦斯燈の仄暗き光に封を切ると、中には細字の文と共に、嘗て自分の呉れてやつた紙幣が這入つて居た。小奴の心は迷うて居る。予は直ぐ引返して行つて玄関をあけた。奴を呼んで封筒のまゝ投げて返す。

 本行寺の歌留多会へ衣川と二人で行って見たが、目がチラチラして居て、駄目であつた。帰りに小奴に逢つた。

三月十日

 心地よく帰つて来ると小泉君が来て居た。何日逢ふても気持のよい男である。社に使やつて十円とり、横山と三人出掛けたが、途中羽鳥逢つて捕虜にし、鶤寅に繰込んで盛んに飲む。小奴は非常に酔うて居た。此日自分へ手紙を出したといふ事であつたが、まだ届かぬ。(此夜の事を翌日“雪の夜の記”にかく)

三月十一日

 小奴の長い長い手紙に起される。先夜空しく別れた時は“唯あやしく胸のみとどろき申候”と書いてあつた。相逢ふれ三度四度に過ぎぬのに何故かかうなつかしいかと書いてあつた。“君のみ心の美しさ浄けさに私の思ひはいやまさり申候”と書いてあつた。

三月二十日

 一時間許りして鶤寅に鞍替。女将の愛嬌は此家繁昌の原因だ焉。小泉君は程なくして酔うて帰つた。快男子菊池、飲む事宛ら長鯨の百川を吸ふが如し。既にして小奴が来た。来てすぐ自分の耳に口を寄せて、“佐藤国司さんが心配してるのよ”と云ふ。何をと云ふと、“小蝶姐さんがネ、石川さんには奥様も子供さんもあるし、又、行末豪くなる人なんだから、彫れるのは構はないけれども、失敬しては可けないツて私に云つたの。” と云つて、“可笑いのネー。”と笑つた。自分も亦哄然として大笑した。“ほんとに可笑いのネー。”と奴は再云つた。

 月の影に波の音。噫忘られぬ港の景色ではあつた。“妹になれ”と自分は云つた。“なります”と小奴は無造作に答へた。“何日までも忘れないで頂戴。何処かへ行く時は屹度前以て知らして頂戴、ネ” と云つて、舷を離れた。歩き乍ら、妻子が遠からず来る事を話した所が、非常に喜んで、来たら必ず遊びにゆくから仲よくさして呉れと云つた。郵便局の前まで来て別れた。

三月二十一日

 一日の籠城、怎やら気が済まぬと、九時頃横山を伴れて鶤寅に進軍。水を持つて来さしたコツプで飲まうとすると、妓小奴銚子を控へて大いに酔ふことを許さぬ。自分には飲ませずに人の盃をとつて飲んで居た。

 一二時打つて弾迎へ。にならぬうちに、奴は先に出て門で待つて居て送つて行くからと坐を辷つた。程なく辞して出ると、奴は其家からコートを着て提灯を持つて出て来た。満街の雪を照して月は水の如く明るい。

 酔いが大分廻つて居てフラフラする。奴の温い手にとられて帰つて来て、室に入ると火もあり、湯も沸つて居る。横山と奴と三人で茶を飲んだ。

三月二十八日

 小奴へ手紙やつた。

 甲斐君が来て、色々話す。電報を見せると北海旭に来てくれぬかと云ふ。話半ばにして小奴が来た。かねちやんを釣れて、甲斐君は座をはづす。

 話はしめやかであつた。奴は色々と心を砕いて予の決心をひるがへさせやうと努めて呉れた。“去る人はよいかも知れぬが、残る者が……”と云つた。一月でもよいから居てくれと云つた。僕の為に肘突を拵へかけて居る云つた。此頃一人で写した写真がまだ出来ぬ云つた。これが一生の別れか云つた。否、々、また必ず逢はう云つた。何処へ行つても手紙を呉れよ云つた。…………………

 明日の午后奴の家を訪問する約束をして、夕刻別れた。

四月三日

 飯を食ふ間に、菊池君が道又金吾といふ医者へ紹介状を書いて呉れる。十時波止場へ行く。遠藤君に逢つた。波が高い。十時半波止場に菊池君と手を分つて艀に乗つた。二三度波を冠つて酒田川丸に乗る。

四月五日

 七時起床。荷役の人夫に頼んで、ハガキを三枚出す。石炭を積み了つて七時半抜錨。波なし。八時港外へ出た。氷が少し許り。

 後には雄阿寒雌阿寒の両山、朝日に映えた雪の姿も長く忘られぬであらう。知人岬の燈台も、程なくして水平線上に没した。

 十一時半、十勝国大津港沖で、浪間に潮を吹く巨鯨を見る。一時頃から風、波が甲板を洗はむとする。夕刻漸く凪いで、襟裳岬の燈台が光り出した。船も燈火を提げた。此処から船は真直らに宮古港をさすのである。

四月六日

 起きて見れば、雨が波のしぶきと共に甲板を洗うて居る。灰色の濃霧が視界を閉ぢて、海は灰色の波を擧げて居る。船は灰色の波にもまれて、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居る。

 十時頃瓦斯が晴れた。午后二時十分宮古港に入る。すぐ上陸して入浴、梅の蕾を見て驚く。梅許りではない、四方の山に松や杉、これは北海道で見られぬ景色だ。菊池君の手紙を先きに届けて置いて道又金吾氏(医師)を訪ふ。御馳走になつたり、富田先生の消息を聞いたりして夕刻に辞す。街は古風な、沈んだ、黴の生えた様[な]空気に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。街上を行くものは大抵白粉を厚く塗つた抜衣紋の女である。鎮痛膏をこめかみに貼つた女の家でウドンを喰ふ。唯二間だけの隣の一間では、十一歳許りの女の児が三味線を習つて居た。芸者にするかと問へば、“何になりやんすだかす。”

 夜、九時抜錨。同室の鰊取の親方の気焔を聞く。

四月七日

 風強く、波が高い。船は可成海岸に沿うて北に進んで、尻矢岬の燈台から斜めに津軽海峡の早瀬を乗切つた。宮古から恰度一昼夜で、午后九時二十分函館に着いた。

 背後から大森浜の火光を見て、四十分過ぎて臥牛山を一週。桟橋近く錨を投じた。あはれ火災後初めての函館。なつかしい函館。山の上の町の燈火の少ないのは、まだ家の立ち揃はぬ為であらう。

 昨年五月五日此処に上陸して以來将に一週年。自分は北海道を一週して来たのだ。無量の感慨を抱いて上陸。俥に賃して東浜町に斎藤大硯君を訪うたが留守。青柳町に走らして、岩崎君宅に泊る。何といふ事もない異様の感情が胸に迫つて、寝られぬ。枕を並べた友も、怎やら寝られぬ気であつた。

 十三日夕七時十分、郁雨兄から十五金を得て函館発。十四日朝八時小樽着。俥を走せて花園町畑十四星川方の我家に入る。感多少。京子が自由に歩き廻り、廻らぬ舌で物を云ふ。一時頃野口雨情君を開運町に訪ひ、共に散歩。明日立つて札幌にゆき、本月中に上京するとの事。夜、沢田来る。いくら努めてても、合はぬ人とは矢張合はぬ。

 十九日。古道具屋を招いで雑品を売る。夜、図らずも木田荊南君来る。荷物の事奥村に置手紙で頼んで、八時十分、一家四人小樽駅から汽車に乗つた。切符は函館迄。

 車中の一夜はオシヤマンベ駅で明けて、四月二十日の日は噴火湾から上つた。午前八時四十分函館着。郁雨兄に迎へられて同家に入る。横山城東来る。午后鈴木方(栄町二三二)の二階の新居に移る。米から味噌から、凡てこれ宮崎家の世話。吉野君来る。

 二十三日。明後日出帆の横浜行三河丸で上京と決す。郁兄と友に岩崎君を訪うて一日語る。夕刻吉野君も来て、四人でビールを抜いて大に酔ひ、大に語る。

 これが最後の一夜。

 二十四日。午前切符を買ひ、(3.50)大硯君を公友会本部に訪ふ。郁雨白村二君と共に豚汁をつついて晩餐。夜九時二君に送られて三河丸に乗込んだ。郁兄から十円。

 舷窓よりなつかしき函館の燈火を眺めて涙おのづから下る。

四月廿七日

 夜の明方、船が大分揺れた。犬吠岬の沖を過ぎたのである。

 午後になつて房州の海岸が右舷に近く見える。青々とした麦の畑が所々にあつた。館山の沖を過ぎる。鋸山の頂きには雲が靉びいて居た。

 軍港横須賀の沖合には、新らしく築かれた砲台が二つ三つ、海の中に牛の如く臥て居た。港の入口と覚しきあたりに軍艦らしき檣が七八本。軈て、横浜の崎が見えだした。

 船は防波堤の奥深く入つて、午後六時錨を投じた。人々と共に二昼夜半の航海を終つて上陸、正金銀行前の長野屋に投宿。船の中で枕を並べた二人と室を同じうする。

五月一日

 午後金田一君を訪ねて夕刻かへる。松原正光といふ人が来て、頻りに牛の話や豚の話をした。八時半頃森田白楊君が来た。平塚明子といふ女と二人日光の山に逃げた事について、二週間前に各新聞に浮名を謳はれた人……その故か、随分と意気阻喪して居た。然し自分は怎してか此人が昔からなつかしい。今は夏目氏の宅に隠れて居るとのこと。(新詩社にて)

五月二日

 与謝野氏は外出した。晶子夫人と色々な事を語る。生活費が月々九十円かゝつて、それだけは女史が各新聞や雑誌の歌の選をしたり、原稿を売るので取れるとの事。明星は去年から段々売れなくなつて此頃は毎月九百しか(三年前は一千二百であつた。)刷らぬとの事。(昨日本屋の店に塵をあびて、月初めの号が一軒に七部も残つて居た事を思出した。)それで毎月三十円から五十円までの損となるが、その出所が無いので、自分の撰んだ歌などを不本意乍ら出版するとの事、そして今年の十月には満百号になるから、その際廃刊するといふ事。怎せ十月までの事だから私はそれまで喜んで犠牲になりますと語つた。

 二時、与謝野氏と共に明星の印刷所へ行つて校正を手伝ふ。お茶の水から車をとばして、かねて案内をうけて居た森鴎外氏宅の歌会に臨む。客は佐々木信綱伊藤左千夫、平野万里、吉井勇北原白秋に予ら二人、主人を合せて八人であつた。平野君を除いては皆初めての人許り。鴎外氏は、色の黒い、立派な体格の、髯の美しい、誰が見ても軍医総監とうなづかれる人であつた。信綱は温厚な風采、女弟子が千人近くもあるのも無理が無いと思ふ。左千夫は所謂根岸派の歌人で、近頃一種の野趣ある小説をかき出したが、風采はマルデ田舎の村長様みたいで、随分ソソツカしい男だ。年は三十七八にもならう。

五月四日

 三時、千駄ヶ谷を辞して、緑の雨の中をこの赤心館に引き越した。室の掃除が出来てないといふので今夜だけ金田一君の室に泊る。枕についてから故郷の話が出て、茨嶋の秋草の花と虫の音の事を云ひ出したが、何とも云へない心地になつて、涙が落ちた。螢の女の事を語つて眠る(赤心館にて)

九月六日

 午後九時少し過ぎて、森川町一番地新坂三五九、蓋平館別荘(高木)といふ高等下宿に移つた。家は新らしい三階建、石の門柱をくぐると玄関までは坦かな石甃だ。家の造りの立派なことは、東京中で一番だといふ。建つには建つたが借手がないので、留守番が下宿をやつてるのだとのこと。

 三階の北向の室に、二人で先づ寝ることにした。成程室は立派なもの。窓を明けると、星の空、遮るものもなく広い。下の谷の様な町からは湧く様な虫の声。肌が寒い程の秋風が天から直ちに入つてくる。

 枕をならべて寝た。色々笑ひ合つて、眠つたのは一時頃であつたらう。

九月十九日

 読売新聞で野口雨情君が札幌で客死した旨を報じた。口語詩人としての君の作物の価値は、僕は知らぬ。然し予は昨年九月札幌で初めて知つて以来、共に小樽日報に入り、或る計画を共にした。今年上京の際は、相携へて津軽海峡を渡る筈だつた。予は一人海路から上京したのだ。最後の会合は今年四月十四日午後小樽開運町なる同君の窮居に於てであつた。予は半日この薄命なる人の上を思出して、黯然として黄昏に及んだ。辺土の秋に斃れた友を思ふことは、何かは知らず胸痛き事だ。

十月二十九日

 吉井君とは別れて帰つた。何となく気が落付かぬ。堀合君へ行つて一円借りて、出かけた。大学の前で横浜工学士に逢つた。北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上った。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒つてるといふ。

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