2022年愛 媛

子規母堂令妹住居跡〜「坂の上の雲」〜
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松山市湊町4丁目の中の川通り緑地帯に「子規母堂令妹住居跡」の碑があった。


子規母堂令妹住居跡


 当時、子規の家はべつなところに移っている。

 旧宅とおなじく中ノ川沿いではある。その川筋(正確には川というより溝だが)を一丁ばかり西へくだると、通称、

「興禅寺あと」

 という一角がある。そこに母方の実家の大原家(加藤恒忠の生家)の屋敷がある。大原家では子規の療養のためとおもい、その屋敷地に閑静な小家屋をたててくれていた。

司馬遼太郎著『坂の上の雲』(文藝春秋刊)単行本:1巻より

挿絵第128回 画・下高原健二


 明治21年(1888年)に正岡子規の母八重と妹の律は大原家屋敷地内に移った、明治25年(1892年)の夏、当時帝国大学生であった夏目漱石が訪問し、松山鮨を食べたのもこの家である。八重と律は、正岡家が東京に一家を移す明治25年(1892年)11月までここに住んだ。

松山市湊町4丁目の中の川通り緑地帯には野間叟柳の句碑があった。


我ひとりのこして往きぬ秋の風

野間叟柳

元治元年〜昭和7年
(1864〜1932)

 本名門三郎、松山藩士で俳人野間一雲の長男、明治17年愛媛師範卒業後30有余年教育界に奉じた。明治27年松風会句会を興し、下村爲山(牛伴)子規らの指導を受けて地方俳壇の振興に貢献した。この句は明治28年10月12日正岡子規送別会の句。

松山市教育委員会

俳句の里 城下コース

内海淡節の句碑へ。

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