私の旅日記〜2011年〜
熱田神宮〜草薙神剣〜
名古屋市熱田区神宮に熱田神宮(HP)がある。
熱田神宮
熱田神宮は延喜式名神大社。
主祭神は熱田大神。
三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)・御神体としてよらせられる天照大神のことだそうだ。
草薙神剣の名は、日本武尊が東国において、この神剣により草を薙いで難をのがれたことによる。
景行天皇43年(113年)、日本武尊、伊勢の国・能褒野(のぼの)にて薨去。
朱雀元年(686年)、天武天皇の勅命により草薙剣は熱田神宮に奉祀される。
久安4年(1148年)、源頼朝は誓願寺に生まれる。頼朝の母は大宮司藤原季範の娘である。
承安4年(1174年)、源義経は金売り吉次と奥州に向かう途中、熱田神宮で宮司が烏帽子親となって元服したという。
建久5年(1194年)、源頼朝奉幣。
平家の侍大将悪七兵衞景清は熱田神宮大宮司の娘婿だという。
弘安2年(1279年)10月20日、阿仏尼は熱田神宮に参詣した。
廿日、尾張国折戸といふ駅を行く、避(よ)きぬ道なれば、熱田の宮へ参りて、硯取り出でて書きつけて奉る歌五、
神楽殿
永禄3年(1560年)、織田信長は桶狭間の合戦を前に熱田神宮で戦勝を祈願、戦勝のお礼に土塀を奉納した。
信長塀
熟(熱)田に詣
社頭大イニ破れ、築地はたふれて草村にかくる。かしこに繩を張りて小社の跡をしるし、爰に石をすゑて其神と名のる。よもぎ・しのぶ、こころのまゝに生たるぞ、中々にめでたきよりも、心とゞまりける。
貞享3年(1686年)、綱吉の熱田御修覆(みしゅうぶく)。
貞亨4年(1687年)、芭蕉は『笈の小文』の旅で再び熱田神宮を訪れている。
元禄7年(1694年)、榎本其角は熱田神宮で句を詠んでいる。
芭蕉翁『甲子の紀行』には、「社大イニ破れ、築地はたふれて草むらにかくる。かしこに繩をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすへ(ゑ)てその神と名乗ル。よもぎ・しのぶ、こころのまゝに生たるぞ、目出たきよりも心とまりて」とかゝれたり。興廃時あり、甲戌の今は造栄(営)あらたに又めでたし。
宝永5年(1708年)4月、明式法師は江戸に下る途上、熱田神宮に参詣している。
美濃をはりのちまた熱田の明神に夜參す。寶殿しづけく影座ましまし、月に鐘のうつり給へる神靈おろそかに思ふべきやは。此國の蓬莱といへるもむべなり。ほのかなる木の間に夜燈は、凍る螢ゆる(※「風」+「占」)ぐかといとたふとく、鳴海づたひの小夜千どりのころも思ひ出、當社八劒のむかし、心にうかぶ。
草薙に薙れて飛や百合の玉
明和元年(1764年)8月19日、多賀庵風律は東国行脚の途上熱田神宮に参詣している。
是より東海道の名を知るさやをまハりて熱田の宮に詣す外に三社或ハ八劒の宮なと有て実もあつたの宮居なるへし
明和8年(1771年)4月9日、諸九尼は熱田神宮に参拝している。
九日 熱田の宮居を拝む。
垢離とりてけふは涼しく鳴海かな
安永元年(1772年)、加舎白雄は松坂から江戸に帰る途中で熱田神宮に詣でている。
あつ田に詣つゝ、葱さへ枯てと聞へし祖翁の句をおもひあはせつ、一艸眼にとゞまりしかば、
神久に椎のうつろのしのぶ艸
「東海紀行」
文化2年(1805年)11月9日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で熱田神宮に参詣している。
先熱田の宮にまうでゝやどりに歸りしが、日もみぢかければ、今宵鳴海のやどりに來るべしと約して、いそぎつゝゆく。
嘉永4年(1851年)3月26日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、熱田神宮に参拝している。
辰時舟を發して午後宮に抵る。既にして熱田の社を拜す。午後、晴。
昭和14年(1939年)4月13日、種田山頭火は熱田神宮に参拝している。
四月十三日 雨、風、リンゴ舎。
リンゴ舎庭園
・塀はコンクリートの蔦よ芽を吹け
しばらく夕日がいちぢくの芽
熱田神宮参拝、林伍君と共に
ならんでぬかづいて二千五百九十九年の春
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