私の旅日記〜2009年〜
四天王寺〜芭蕉・野坡の墓〜
大阪市天王寺区四天王寺に四天王寺(HP)がある。
推古天皇元年(593年)、聖徳太子が建立。
抑この四天王寺は、上宮太子の御草創にて、由來は太子傳記にくはしく見ゆ。まことに日の本最上の靈場にして、堂塔の壯嚴いふもさらなり
何となくこゝろはうちやう天王寺われをわするゝありがたさには
六時堂
和宗総本山である。
西行は天王寺に参り、「亀井の水」を見て歌を詠んでいる。
天王寺へまゐりて、龜井の水を見てよめる
あさからぬ契の程ぞくまれぬる龜井の水に影うつしつゝ
元三大師堂の隅に芭蕉と野坡の墓があった。
「浅生翁之碣」 「芭蕉翁之墓」
宝暦12年(1762年)、有井浮風建立。
記念集『朱白集』(浮風編)、刊行。
芭蕉・野坡の墓
芭蕉翁の墓、野坡の墓ともに同型で龍岡の撰文があり、湖白菴浮雲が宝暦11年(1761年)、師の野坡二十回忌に建てたものである。
浮雲は有井氏、幼名は新之助。軍治義保の名で筑前直方藩に仕えた武士だが、野坡の門に入ってからは芭蕉に傾倒し、武士を捨て、大坂に来て、医業で生計を立てながら、野坡門を継いだ。
浮雲は「二翁の石碑を四天王寺の椎寺の傍らに置き、松葉塚、また二つ塚と呼ぶことにしたい。野坡の塚には俳人風之が師から頂いた神像を納めておく」との意を書き、
松葉とは散りての名なり二つ塚
との句を添えている。
両墓の落成供養は宝暦12年4月で、そのあと浮雲は郷里に戻り、5月、61歳で病没した。
(『大阪史蹟辞典』より抄出)
「浮雲」は「浮風」の誤りであった。浮風の妻は諸九尼。
五重塔
明和8年(1771年)10月、加舎白雄は四天王寺に参詣している。
寛政7年(1795年)3月27日、一茶は四天王寺に詣で句を詠んでいる。
明治36年(1903年)7月26日、長塚節は四天王寺の塔に上る。
二十六日、四天王寺の塔に上る
刻楷(きざはし)を足讀み片讀みのぼり行く足うらのしもゆ風吹ききたる
押照る難波の海ゆふきおくる風の涼しきこの塔の上
明治40年(1907年)、若山牧水は郷里の坪谷から上京の途中で四天王寺を訪れている。
白雲のかからぬはなし津の国の古塔に望む初秋の山
『海の声』
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