永禄4年(1561年)1月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣山村丹右衛門が清土の地辺りから鬼子母神を掘り出し、星の井で清め東陽坊という寺に納めた。 |
雑司ヶ谷鬼子母神は入谷の鬼子母神と市川市中山の正中山法華経寺とともに江戸三大鬼子母神だそうだ。 |
鬼子母神像は鬼形ではなく、菩薩形のお姿をしているので、とくに角がつかない鬼の字を用いているという。 |
手廻しや千人の子の衣かえ |
文化5年(1808年)5月25日、小林一茶は草津に向かう途中で雑司ヶ谷の鬼子母神に旅の安全を祈る。 |
廿五日 曇 草津道の記 卯一天(点)に久松丁を立て、糀町なる河内屋武兵衛と云ふ人を誘て、同行四人、雑司ヶ谷にかゝる。皆々行末の安堵ならんことを鬼子[母]神に祈る。 顔ぬらすひたひた水や青芒(すすき) 霖雨の潤ひに土ぬかりて、歩行心にまかせず。 ぬれ臑(すね)にへたとひゝつく藪蚊かな |
文化14年(1817年)8月17日、国学者高田与清は鬼子母神に詣でている。 |
○おとはのごゝくじのくわんおん・ざふしがやのきしも神などにまうでゝ、しひなまち・長崎・かみいたばしなどいふ所をすぎゆく。 |