2021年大 阪

蕪村生誕地〜蕪村礼讃〜
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蕪村公園から蕪村の生誕地へ。

毛馬の水門


サクラが咲いていた。


蕪村の生誕地


蕪村生誕地


蕪村の句碑


春風や
 堤長うして
  家遠し

昭和53年(1978年)2月、建立。

蕪村礼讃


碑面の

   春風や堤長うして家遠し   蕪村

の句は安永六年(1777年)蕪村62才の正月に出した春興帖「夜半楽」の中の「春風馬堤曲」の第2番目の句である。「春風馬堤曲」は蕪村が故園の毛馬に対する強い郷愁の思いをうたった異色の作品である。「春風馬堤曲」は俳句漢詩それに和詩を交えた18首から成るものであってそれは大阪からやぶ入りで毛馬へ年ぶりに帰る若い娘の気持ちになって蕪村自身の郷愁の思いを詠んだものである。この曲の序で蕪村は故園の毛馬に昔からの知り合いの老人を訪ねたように書いているがこの時蕪村は毛馬へ帰ったのではなかった。のみならず蕪村は毛馬に生まれて幼年期少年期をすごして20才ごろ毛馬を離れて以来一度も毛馬へは帰っていないのである。京に住むようになってからは何度か大阪へきている。ある時は桜の宮の近くまで来ているがついに毛馬へは帰らなかったが、京と大阪の往復には淀川の三千石舟を利用しているから舟の中からはるかに毛馬の堤や毛馬の家々をながめたであろう。それだけに蕪村の心の中には毛馬への思いが強くやきつけられたのである。大阪から毛馬へ来るには淀川の昔の毛馬の渡舟をわたるのであるが、そうして毛馬の堤に立った時毛馬の家々が遠くにながめられ故園に帰ったという気持ちが心の底からわき上がってくる。その気持ちを詠んだのがこの句である。蕪村はこよなく故園の毛馬を愛した人でありそれをまた誇りにしたのである。「春風馬堤曲」につけて伏見のある門人に当てた手紙に

      馬堤は毛馬塘也

   春風馬堤曲 則余が故園也

と毛馬が自分の故園であることを声を大にして告げている。その手紙ではまた「実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて」と「春風馬堤曲」をなした心境を伝えている。この碑面の句はこのように蕪村の毛馬に対する深い郷愁をこめた句であるから、毛馬にあって蕪村を慕い蕪村を記念するにはまことに適当なものである。この句を口ずさむことによっていつまでも蕪村の偉大な業績とその人柄をしのぶのである。このような人を生んだのは毛馬の大きな誇りである。

蕪村は享保元年(1716年)に毛馬で生まれたのである。姓は谷口と伝えられ後に与謝と改めている。幼名や通称はわからない。その生まれた家は毛馬のどの辺かと云うとそれも全く分からない。ただ、今の毛馬町5丁目あたりの河川敷ではないかと推測されるのみである。蕪村は子供のころはいつも毛馬の堤の上で遊んだものであったが20才のころ毛馬を離れて江戸に下った。そうして早野巴人の門に入って俳諧を学んだ。しかし6年後には巴人が歿したので蕪村は関東各地の巴人門の先輩をたよって漂泊の生活をした。そのころ蕪村は宰町または宰鳥と号していたが、延享元年(1744年)宇都宮で出した歳旦帖ではじめて蕪村と号するようになった。このような生活は十数年つゞいたが宝暦元年(1751年)36才の冬京に上った。これからは蕪村は宮津で4年ばがり滞在したり讃岐へ旅をしたこともあったがで家庭生活を送った。蕪村の結婚は43才ごろと推定される。妻の名はとも。くのと云う娘が一人あった。蕪村は天明3年(1783年)12月25日68才でこの世を去ったのである。墓は洛北一乗寺の金福寺の境内にある。蕪村が生まれたのは芭蕉の没後22年目である。芭蕉が唱えた薫風俳諧も後継者がないため全く色あせたものになっていた。蕪村が俳人として活躍した時は「芭蕉にかえれ」を目標とした。後蕪村は師巴人の夜半亭の号を継いで夜半亭二世となって立机した。一門の人々は云うまでもなく他の多くの俳人達と互いに提携して新しい俳諧の世界を開いたのである。蕪村一門の撰集には「其雪影」「此ほとり」「明鳥」「続明鳥」「桃李」「花鳥篇」「五車反古」などがあり、蕪村の著作には「夜半楽」の外に「新花摘」がある。蕪村は俳人として大きな業績をのこしたが一面画家としても数多くの作品をのこしている。画家としては当時文人画の第一人者と云われた池大雅と並び称され、この大雅との合作の「十便十宜図」は国宝となり、その他にも蕪村の絵には重要文化財に指定されたものが何点かある。蕪村の絵は重厚感のある山水図軽妙な人物画俳画などと分野が広く独特の新鮮な感覚が漂っている。また蕪村は絵においても毛馬を忘れてはいない。宝暦9年(1759年)ごろの作品に「河南趙居」「淀南趙居」または「馬塘」と明らかに淀川南岸の毛馬やその堤を意味する落款を用いている。蕪村が終生使った「東成」は当時毛馬が属していた郡名そのまゝである。こうしたところにも蕪村の郷愁があらわれてい毛馬の人蕪村、これは永遠にわれわれの誇りでなければならない。

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