貞観6年(864年)、慈覚大師自作の聖観音像を本尊とし、天台宗の寺院として創建。鉄舟和尚が再興し、臨済宗南禅寺派の寺とした。 |
四明山下の西南一乗寺村に禅房あり、金福寺といふ。土人口称してばせを庵と呼ぶ。階前より翠微に入ること二十歩一塊の丘あり。すなはちばせを庵の遺跡也とぞ。 |
蕪村や道立が建てたもので、芭蕉の生涯を称えた文が刻してある。蕪村は碑の建立時に 我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花 とよみ残していたので、望みどおり後丘の墓に納骨された。 |
天明3年(1783年)3月23日、加藤暁台は金福寺芭蕉庵で芭蕉百回忌取越追善俳諧を興行。 |
同二十三日四明洞下於金福寺芭蕉庵興行 |
|||||||||||||||||||
追善之俳諧 正式 |
|||||||||||||||||||
花さかり奇特や日々に五里六里 |
|||||||||||||||||||
降ラすて霞む雲の尻兀 | 曉臺 |
||||||||||||||||||
鳳巾の糸心行迄のはすらん | 蕪村 |
『風羅念仏』(法会の巻) |
花守は野守に劣る今日の月 | 蕪村 |
||||||||||||
西と見て日は入りにけり春の海 | 百池 |
安政7年(1860年)3月3日、大老井伊直弼は桜田門外で暗殺された。 |
|||||||||
文久2年(1862年)、村山たか女は金福寺に入る。 |
たか女は、明治9年金福寺で14年間隠棲し、67才の生涯を閉じた。当時この寺は圓光寺の末寺であったので、本墓は圓光寺にたてられた。金福寺でも彼女の菩提を弔うため本墓の土を埋め、彼女の筆跡を刻み、参り墓とした。 |
徂く春や京を一目の墓どころ | 虚子 |
昭和10年(1935年)5月2日、高浜虚子は金福寺をを訪れている。 |
鹿笛句会。東山、金福寺。 落椿ころげ出でたる垣根かな 屋根替の指図までする尼の君 詩仙堂より金福寺まで落椿 |
昭和37年(1962年)、中村草田男は金福寺を訪れている。 |
金福寺を訪ふ。芭蕉を追慕して蕪村の建立せる芭蕉庵あり。 その傍に「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」の句碑あり。こ の句の初案「……秋の寺」を、後日「……閑古鳥」に改めた りと言ひ伝ふるものなり。一句。 「秋の寺」かよ「閑古鳥」かよ憂き身一つ 同地域内に蕪村自身の墓もあり。やや久しく三人にて附近を 逍遥す。二句。 画俳離俗冬日自楽の碑文字肥ゆ われは小石を友は木の実を形見とす
『萬緑』 |
山口誓子は金福寺に芭蕉の句碑を訪ねている。 |
そのあたりに金福寺がある。芭蕉の句碑があると云うので訪ねて来たのだ。詩仙堂の南に当り、同じ一乗寺町。階を登って門を入り、直ぐ右の庭に入る。 そこに御影石角石のかなり大きな句碑が立っている。連記。 花守は野守に劣るけふの月 西と見て日は入りにけり春の海 前者は蕪村、後者はその弟子百池の作。 私は百池のこの句を好む。現代にも通用する句だ。 その庭を通り過ぎ、東の小高い丘に登って行くと、平地に芭蕉の句碑が立っている。芭蕉庵という庵の裏だ。 低い自然石。 うき我をさびしがらせよかんこ鳥 ひどく苔づいているが、見る角度によって字ははっきり読める。
『句碑をたずねて』(京都) |