2010年京 都

金福寺〜与謝蕪村〜
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京都市左京区一乗寺才形町に金福寺という寺がある。


佛日山金福寺


 貞観6年(864年)、慈覚大師自作の聖観音像を本尊とし、天台宗の寺院として創建。鉄舟和尚が再興し、臨済宗南禅寺派の寺とした。

庭園の東側に「芭蕉庵」がある。


芭蕉は金福寺の鉄舟和尚よく訪れ、和尚は「芭蕉庵」と名付けていた。

安永6年(1777年)9月、与謝蕪村は「芭蕉庵」を再興。

四明山下の西南一乗寺村に禅房あり、金福寺といふ。土人口称してばせを庵と呼ぶ。階前より翠微に入ること二十歩一塊の丘あり。すなはちばせを庵の遺跡也とぞ。

芭蕉の碑


安永6年(1777年)9月、建立。

蕪村や道立が建てたもので、芭蕉の生涯を称えた文が刻してある。蕪村は碑の建立時に

   我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花

とよみ残していたので、望みどおり後丘の墓に納骨された。

天明元年(1781年)、「洛東芭蕉庵再興記」を金福寺に納めた。

 天明3年(1783年)3月23日、加藤暁台は金福寺芭蕉庵で芭蕉百回忌取越追善俳諧を興行。

同二十三日四明洞下於金福寺芭蕉庵興行

      追善之俳諧   正式

   花さかり奇特や日々に五里六里

   降すて霞む雲の尻兀
  曉臺

   鳳巾の糸心行迄のはすらん
  蕪村

『風羅念仏』(法会の巻)

天明3年(1783年)12月25日、蕪村は68歳で没。

与謝蕪村墓


「芭蕉庵」に芭蕉の句碑があった。


うき我をさひしからせよかんこ鳥

出典は『嵯峨日記』

元禄4年(1691年)4月22日、芭蕉48歳の句。

文政5年(1822年)、落柿舎四世吾同中建立。

金福寺の庭園


庭園に蕪村と百池の句碑があった。


花守は野守に劣る今日の月
   蕪村

西と見て日は入りにけり春の海
   百池

百池は蕪村の門弟寺村百池。

明治15年(1882年)、蕪村の百回忌に百僊が建立したらしい。

百僊は寺村百池の孫。

安政7年(1860年)3月3日、大老井伊直弼は桜田門外で暗殺された。

文久2年(1862年)、村山たか女は金福寺に入る。

祖省塔


「村山たか女」の参り墓

たか女は、明治9年金福寺で14年間隠棲し、67才の生涯を閉じた。当時この寺は圓光寺の末寺であったので、本墓は圓光寺にたてられた。金福寺でも彼女の菩提を弔うため本墓の土を埋め、彼女の筆跡を刻み、参り墓とした。

徂く春や京を一目の墓どころ
   虚子

昭和10年(1935年)5月2日、高浜虚子は金福寺をを訪れている。

鹿笛句会。東山、金福寺。

 落椿ころげ出でたる垣根かな

 屋根替の指図までする尼の君

 詩仙堂より金福寺まで落椿


昭和37年(1962年)、中村草田男は金福寺を訪れている。

   金福寺を訪ふ。芭蕉を追慕して蕪村の建立せる芭蕉庵あり。
   その傍に「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」の句碑あり。こ
   の句の初案「……秋の寺」を、後日「……閑古鳥」に改めた
   りと言ひ伝ふるものなり。一句。

「秋の寺」かよ「閑古鳥」かよ憂き身一つ

   同地域内に蕪村自身の墓もあり。やや久しく三人にて附近を
   逍遥す。二句。

画俳離俗冬日自楽の碑文字肥ゆ

われは小石を友は木の実を形見とす

『萬緑』

山口誓子は金福寺に芭蕉の句碑を訪ねている。

そのあたりに金福寺がある。芭蕉の句碑があると云うので訪ねて来たのだ。詩仙堂の南に当り、同じ一乗寺町。階を登って門を入り、直ぐ右の庭に入る。

 そこに御影石角石のかなり大きな句碑が立っている。連記。

   花守は野守に劣るけふの月

   西と見て日は入りにけり春の海

 前者は蕪村、後者はその弟子百池の作。

 私は百池のこの句を好む。現代にも通用する句だ。

 その庭を通り過ぎ、東の小高い丘に登って行くと、平地に芭蕉の句碑が立っている。芭蕉庵という庵の裏だ。

 低い自然石。

   うき我をさびしがらせよかんこ鳥

 ひどく苔づいているが、見る角度によって字ははっきり読める。


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