私の旅日記2009年

諏訪神社〜蕪村の俳文碑〜
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八郎潟町夜叉袋一向堂に諏訪神社がある。


諏訪神社の黄葉と落葉


諏訪神社の参道左手に蕪村の俳文碑があった。


 出羽のくによりみちのくのかたへ通りけるに山中にて日暮けれは、からうして九十九袋(やしゃふくろ)といへる里にたとりつきてやとりもとめぬ。

 よすからごとごととものゝひゝ音しけれは、あやしくてたち出見るに、古寺の広庭に老たるおのこの麦を舂くにて有けり。

 予もそこら俳掴しけるに、月孤峰の影を倒し、風千竿の竹を吹いて朗夜のけしきいふはかりなし。

 此おのこは昼の暑をいとひてかくなむなめりと。やかてたちよりて名は何といふそと問へは、宇兵衛と答ふ。

涼しさに麦を月夜の卯兵衛哉   夜半翁

昭和56年(1981年)12月、建立。

『新花摘』収録の俳文である。

夜半亭は蕪村の別号。

 明治40年(1907年)6月27日、河東碧梧桐は蕪村の俳文について書いている。

九十九袋は現在の「夜叉袋」であろうと、秋田人は蕪村の出羽に来た唯一の証左としておる。夜叉袋は秋田郡の八朗湖に寄った処で、今も秋田市能代を経て陸奥に達する国道に沿うた小村である。文中「孤峰の頂を照らし」とある孤峰は所で「森山」というのであろうという。


 蕪村は22歳の時に江戸に下り、早野巴人(夜半亭宋阿)に俳諧を学ぶ。寛保2年(1742年)、蕪村27歳の時に宋阿が没し、下総結城の砂岡雁宕のもとに身を寄せる。宋阿のあとを継いだ望月宗屋が亡くなると、夜半亭を継いだ。芭蕉の足跡を辿り奥羽行脚、寛保3年(1743年)、秋田にやって来た。当時は宰鳥と号していた。寛保4年(1744年)、下野国宇都宮で編集した『歳旦帳』で初めて蕪村を号した。

諏訪神社社殿


祭神は建御名方神。

「果知らずの記」に、

日暮れて一日市(ひといち)に泊す。僻地の孤村屋室の美魚介の鮮なけれども、まめやかにもてなしたるは嬉し。十四日庭前を見れば始めて蕗葉の大なるを知る。宿を出で北する事一二里盲鼻に至る。邱上に登りて八郎湖を見るに四方山低う囲んで細波渺々唯だ寒風山の屹立するあるのみ。

とある。子規子の宿をとった一日市は夜叉袋の南の村で、その間十余町に過ぎぬ。盲鼻は三倉鼻と書く。夜叉袋を北に約一里ばかりの丘である。されば子規子も夜叉袋を通過したのであった。

 子規子は三倉鼻を北行の極端として秋田に引返した。蕪村はなお矢立峠を過ぎて陸奥に入ったのであろうけれども、足跡漠として尋る所がない。


社殿の手前左手に芭蕉の句碑があった。


月いつこ鐘はしつめる海の底

出典は「芭蕉翁月一夜十五句」。

 元禄2年(1689年) 8月15日(旧暦9月27日)、『奥の細道』の旅の途中、敦賀の金ヶ崎で詠まれた句。

 八郎潟の東浜一向堂のほとりの水底に鐘が沈んでいるという言い伝えがあった。

 碑陰に「寛政五癸丑九月日 小夜庵社中 昼寐之里 素大・野了・樗木」とある。

寛政5年(1793年)9月、芭蕉百年忌に小夜庵社中建立。

 『諸国翁墳記』に「月 塚 出羽秋田郡昼寝里一向堂アリ 小夜庵社中建」とある。

 村井素大は八郎潟町夜叉袋羽立、昼寝の里の豪農。五明の門人。金之丞。鶯々舎。

寛政5年(1793年)、『月以都古』(素大・樗木・野了編)上梓。五明序。

羽の八龍湖の東濱一向堂のほとりなる水底に寶鐘のうつもれあなる事むかしより人の言傳侍るに今年はせを翁の一百の遠忌に越前かねか崎にての一句を鑄りて晝寐の里の三子彼境内に碑をいとなミ建る其眞情を冊子のはしめにあらハす

小夜庵 五明
   水底の鐘も鳴れ碑の初時雨

   ○

昼寐里
海の鐘世にあらはすや翁塚
   素大

槻の木たちの庵地ふる霜
   野了

裝束の飛たつ馬を乗すえて
   五明



碑に俤のたつや村時雨
   樗木

百いろの木の葉焚かばや塚供養
   野了

芭蕉の句碑の右手に素大の句碑がある。


世ならぬ思ひ(へ)ば涼しうみの上

文化元年(1804年)3月、建立。

 文化6年(1809年)、菅江真澄は一向堂を訪れ、芭蕉の句碑のことを書いている。

田頭(たつら)に、一向堂といふが古河のべ近くあり、此佛刹を大川の浦にうつして大福寺といふ。その一向堂のふる跡にも庵ありて、尚一向堂といへり。此馬手に内外の神垣あり、弓手に寄木を觀音菩薩と祭りて堂あり。そか中に諏訪の社あり、もともかんさねにして健南方富命を齋ひまつる。

(中 略)

「月以都古」といふふみを見れは、八龍湖のひんかしに在る一向堂に、芭蕉の翁桃青もゝとせのあとをとふらひ、壟をついてその石の面には、「月いつこ鐘はしつめる海の底。」といふ句をきためめり。それの詞、「羽の八龍湖の東濱、一向堂のほとりなる水底に、寶鐘のうつもれあなる事むかしより人の言傳侍るに、はせをの翁に一百年の遠忌に、越前かねか崎にての一句を鑄りて、晝寐の里の三子、彼境内に碑をいとなみ建る。其眞情を冊子のはしめにあらはす。小夜庵 五明。水底の鐘も鳴れ碑のはつしくれ」といふ序あり。其二「海の鐘世にあらはすや翁塚 ひるね素大。」槻の木立の庵□ふる霜 埜了。「裝束の飛たつ馬をのりすえて 五明。」なとそ聞へたる。うへも、湖の底に鐘のしつみありつるよしをもはら傳ふ。

『夷舎奴安裝婢』(ひなの遊び)

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