2008年東 京

目黒不動〜五色不動〜
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目黒区下目黒に目黒不動があるので、行ってみた。


江戸三十三箇所第33番札所である。

江戸名所図絵「目黒不動堂」


同じ所の西百歩あまりにあり。泰叡山滝泉寺と号す。天台宗にして東叡山に属せり。開山は慈覚大師、中興は慈海僧正なり。

本堂不動明王 慈覚大師の作、脇士(けふし)は八大童子なり。

『江戸名所図会』(目黒不動堂)

 目黒不動尊(HP)は熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて日本三大不動のひとつ。

また、江戸五色不動(目黒・目白目赤・目黄・目青)のひとつである。

目黄不動は台東区江戸川区の2ヵ所にある。

目黒不動

 天台宗で泰叡山滝泉寺といい、大同3年(808年)に慈覚大師が開創したといわれています。徳川3代将軍家光が堂塔伽藍を造営し、それ以来幕府の保護があつく、江戸近郊におけるもっとも有名な参拝行楽の場所となって、明治まで繁栄をきわめました。

 境内は台地の突端にあり、水が湧き老樹が茂り、独鈷の滝や庭の池が美しく、庶民の信仰といこいの場所でした。

 壮麗をきわめた古い建物は、戦災で大半が焼失しましたが、本堂、仁王門、書院、鐘楼などの再建が着々と進められ、「前不動尊」(都指定文化財)、「勢至堂」(区指定文化財)は、江戸時代の仏堂建築の面影を残しています。

 また、境内には「銅造役の行者倚像」「銅造大日如来坐像」(区指定文化財)があります。

 裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡として知られ、墓地は青木昆陽の墓(国の史跡)があります。

東京都目黒区教育委員会

仁王門


阿弥陀堂


 徳川三代将軍家光がこの地で鷹狩りをした際、その愛鷹が行方知れずになり自ら不動尊の前に額ずき祈願を籠めた。すると、忽ち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松)に飛び帰ってきたので家光公はその威力を尊信し、諸堂末寺等併せて五十三棟に及ぶ大伽藍の復興を成し遂げたそうだ。

男坂の上に大本堂


 薩摩藩主島津斉彬が病に伏していたとき、西郷隆盛はこの目黒不動尊で病回復を祈願したと云われている。

大本堂


本尊は不動明王。

関東三十六不動霊場第18番札所である。

 大正8年(1919年)10月9日、永井荷風は目黒不動を訪れた。

小春の空晴渡りぬ。陋屋の蟄居に堪えず歩みて目黒不動の祠に詣づ。惣門のほとりの掛茶屋に憩ひて境内を眺むるに、山門の彼方一帶の丘岡は日かげになりて、老樹の頂き一際暗し。夕日は掛茶屋の横手なる雜木林の間に低くかゝりて、鋭く斜に山門前の平地を照したり。雜木林の彼方より遥に普請場の物音聞ゆ。近郊の開け行くさまを思ひやりては、瀧の落る音も今は寂しからず。大國家の方よりは藝者の三味線も聞え出しぬ。此の地も角筈十二社境内の如く俗化すること遠きにあらざるべし。


大本堂から見下ろす桜


 昭和10年(1935年)9月20日、高浜虚子星野立子と家庭俳句会で目黒不動に吟行。

九月二十日。家庭俳句会。目黒不動前。大国屋。

 一棟の昔のまゝや秋の風

 鳩一羽つかまへ放す茶屋の秋

 栗飯を食うて帰るもこゝの情


 九月二十日。目黒不動に吟行。大国屋と言ふお茶屋に
休んでから不動様にお詣りする。門前に一人の占者が私
の袖を引つぱつて観てあげますといふ。びつくりして又
不動様の方へもどる。萩叢が大変美しい。大小とりどり
に点々とある。その他は花らしいものは何もない。

  萩の庭この萩叢が美しや


鐘楼堂


目黒不動に「時の鐘」がおかれていたそうだ。

 昭和11年(1936年)1月5日、高浜虚子は武蔵野探勝会で目黒不動へ。

 目黒の不動には昭和十年九月に家庭俳句会で一度行つたことがあるのであるが、再び昭和十一年一月五日武蔵野探勝会で其処に赴くことになつた。

 家庭俳句会の時は境内は落莫として居つて、不動堂に参詣する人も少なかつたので、目に入るものは堂の屋根に群り止つて居る鳩と、門前に店を出して居る手相見ぐらゐなものであつた。殊に此手相見は私達一行の者が戯れに手相を見て貰つたりなどして興味の中心になつたのであつて、淋しい天地に僅に需め得た一抹の興味であつた。

『武蔵野探勝』(目黒不動)

本堂の裏に銅像大日如来坐像がある。


 蓮華座に結跏趺座(けっかふざ)しているこの坐像は宝髪、頭部、体躯、両腕、膝等十数か所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹き寄せの技法で造られています。総高385cm、坐高281.5cm、頭長は121cmで、体躯にくらべ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色であり、面相も体躯の衣文表現もよく整っています。

 現在は露座となっていますが、「江戸名所図会」の「目黒不動堂」の挿図より、江戸時代には堂舎の中にあったことがわかります。

 台座の蓮弁には開眼の年、入仏開眼供養の際の導師や僧侶の歴名が刻まれると共に、多数の施主名と供養者名が見えることから、大衆による造像だったことがうかがえます。また、刻銘から制作年の天和3年(1683年)と、制作者が江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重であることがわかることも貴重です。

目黒区教育委員会

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