旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの女性

八重次(のちの藤蔭静枝)


大正7年(1918年)

旅館に在り無聊甚し。午後築地櫻木に至り櫓下の妓八重福を招ぎ、置炬燵に午夢を貪る。

『斷腸亭日乘』(12月16日)

歸途櫻木にて晩飯を食し、八重福滿佐の二妓、いづれも梅吉の弟子なるを招ぎ、自働車にて淺草の年の市に行き、羽子板を買ふ。

『斷腸亭日乘』(12月17日)

頭痛甚しけれど體温平生に復す。正午櫓下の妓八重福明治屋の西洋菓子を携へ再び見舞に來る。いさゝか無聊を慰め得たり。

『斷腸亭日乘』(12月21日)

日暮れて後櫻木にて晩飯を食し、妓八重福を伴ひ旅亭に歸る。此妓無毛美開、閨中欷歔すること頗妙。

『斷腸亭日乘』(12月22日)

三味線取出して低唱せむとするに皮破れゐたれば、櫻木へ貸りにやりしに、八重福満佐等恰その家に在りて誘ふこと頻なり。寢衣に半纒引きかけ、路地づたひに徃きて一酌す。雪は深更に及んでますます降りしきる。二妓と共に櫻木に一宿す。

『斷腸亭日乘』(12月25日)

三更寢に就かむとする時、八重福また門を敲く。獨居凄涼の生涯も年と共に終りを告ぐるに至らむ歟。是喜ぶべきに似て又悲しむべきなり。

『斷腸亭日乘』(12月30日)

大正8年(1919年)

八時頃夕餉をなさむとて櫻木に至る。藝者皆疲労し居眠りするもあり。八重福余が膝によりかゝりて又眠る。鄰楼頻に新春の曲を彈ずるものあり。梅吉節付せしものなりと云。余この夜故なきに憂愁禁じがたし。

『斷腸亭日乘』(1月1日)

夜半八重福春着裾模様のまゝにて來り宿す。余始めて此妓を見たりし時には、唯おとなしやかなる女とのみ、別に心づくところもなかりしが、此夜燈下につくづくその風姿を見るに、眼尻口元どこともなく當年の翁家富枩に似たる處あり。撫肩にて弱々しく見ゆる處凄艶寧富松にまさりたり。早朝八重福歸りし後、枕上頻に舊事を追懐す。睡より覚むれば日既に高し。

『斷腸亭日乘』(1月2日)

夜半八重福来り宿す。

『斷腸亭日乘』(1月3日)

八重福との情交日を追ふに從つてますます濃なり。多年孤獨の身邊、俄に春の來れる心地す。

『斷腸亭日乘』(1月4日)

櫓下の妓家増田屋の女房、妓八重福と、浜町の小常磐に飲む。夜櫻木にて哥澤芝きぬに逢ひ梅ごよみを語る。此日暖なり。

『斷腸亭日乘』(1月6日)

八重福吾家に来り宿すること、正月二日以後毎夜となる。

『斷腸亭日乘』(1月8日)

櫻木の老婆を招ぎ、妓八重福を落籍し、養女の名義になしたき由相談す。余既に餘命いくばくもなきを知り、死後の事につきて心を勞すること尠からず。家はもとより冨めるにはあらねど、亦全く無一物といふにもあらざる故、去歳辯護士何某を訪ひ、遺産處分の事について問ふ處ありしに、戸主死亡後、相續人なき時は親族の中血縁戸主に最近きもの家督をつぐ事となる。若し強ひて之を避けむと欲するなれば、生前に養子か養女を定め置くより外に道なしとの事なり。妓八重福幸に親兄弟なく、性質も至極温和のやうなれば、わが病を介抱せしむるには適当ならむと、數日前よりその相談に取かゝりしなり。櫻木の老媼窃に女の身元をさぐりしに、思ひもかけぬ喰せ物にて、養女どころか、唯藝者として世話するもいかゞと思はるゝ程の女なりといふ。人は見かけによらぬものと一笑して、此の一件はそのまゝ秘密になしたり。

『斷腸亭日乘』(1月16日)

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