芦野ゝ里なる道野辺の清水に西上人の俤もゆかしくその木陰に我も彳て残暑を凌く
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宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は遊行柳で芭蕉の面影を偲んでいる。
○遊行柳
芦野邑中湯前大明神の鳥居左りに埒ゆひまはして古柳あり田一枚植て立さる柳といへる祖翁の俤を思ひ猶上人のむかしをおもふ
立よれは六字書葉やちる柳
大磯町の鴫立庵に「遊行柳枝碑」がある。
宝暦中、鳥老師、山鯉房を携へ奥羽行李の戻りそこの田畔に立寄り、其繊枝を手折り、笠の端に挿み、武中栗橋駅愛弟梅沢氏素人子が窓外に刺す。今一庭を蔽て八九間空にしられぬ雨を見る、同州八王子の郷、執友窪田氏古由君其一朶を懇に乞覓(もと)め園裡に養ひ給ふ。此時亭々として舎蓋に彷彿たり。ことし明和五戊子の春正月望の日、志村氏書橋君又其梢をみづから折て一章を添らる。是を榎本氏の室女星布平願をもつて鳥老師におくれるを爰の沢辺に移す。
武都松露庵 侍瓶 昨烏題す
似た僧のけふも立寄る柳哉 鳥酔
加舎白雄「移柳の文」
宝暦5年(1755年)5月24日、南嶺庵梅至は遊行柳で句を詠んでいる。
宝暦13年(1763年)3月24日、二日坊は遊行柳で句を詠んでいる。
宝暦13年(1763年)4月、蝶夢は松島遊覧の途上、遊行柳に立ち寄っている。
芦野の宿はづれに、道の辺の清水いさぎよく、柳のみどりかげうつりて、立さりがたし。
風呂敷を持せて涼し柳かげ
明和6年(1769年)5月、蝶羅は象潟からの帰途、芦野を訪れ句を詠んでいる。
あし野にて
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五月雨をしバし晴たる清水哉
| 仝
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明和8年(1771年)8月12日、諸九尼は境の明神を過ぎて遊行柳を訪れ、芦野に泊まっている。
白川と白坂の間に、境の明神と申神おはします。みちのくと下野の国の境成とや、西行上人の清水流るゝと詠給ふ(ひ)ける所は、田の中を行く水なり。流にそひて柳多し。
落し水にさそハれてちる柳かな
この柳がもと芦野といふ所にやどる。
安永2年(1773年)、加舎白雄は遊行柳を訪れた。
道の辺の柳をけふこそ見るなれ。先のとし鳥師行李の帰るさ頌嘆のあまりに一枝を折て笠の端にさしはさみうつし植し、今東道鴫立庵の一沢を覆ひてゆきゝの人をねむらす。一枝を折し罪を風流に換られしよ。楊柳情ある時は何ぞくゆべき。其柳此柳ともに枝幹ともにみどりなり。西上人はむかしにして鳥師のおもかげ柳にそふて柳になつかし。
秋の柳をれくち淋しもしやそれ
鳥師は白井鳥酔のこと。
寛政3年(1791年)6月4日、鶴田卓池は遊行柳を訪れている。
三り芦野
此所に清水流るゝの柳あり
翁ノ碑 田一枚うゑて立去る柳かな
小林一茶も遊行柳を詠んでいる。
不細工の西行立り柳かげ
『文化句帖』(享和4年正月)
享和元年(1801年)5月、常世田長翠は遊行柳を訪れている。
道の辺の柳
清水ありて柳ありて、なをむかしをしのひ、いまをかたるに其葉しけりて面をあふツ
四葉五葉ちれよ皐月のぬれ柳
戸谷双烏、戸谷朱外宛書簡
安政6年(1859年)正月25日、市原多代女は須賀川を立ち、江戸に向かう。
芦野の柳見侍るに、旅こゝろいまださだまらず、家のことなど思ひ出て
大正14年(1925年)7月6日、荻原井泉水は遊行柳で芭蕉の句碑を見ている。
そして、昔の街道はこの柳の前を通っていたということである。樹下に句碑がある。句は「田一枚植ゑて立去る柳かな 芭蕉」、陰に「江戸 春蟻建 寛政十一年己未四月」、また、それと対して鳥居の石には
道のべにしみづ流るゝ柳かげ
しばしとてこそ立どまりけれれ 西行
この西行の歌は実は題詠の作であって、この地の柳を詠んだものではないのだが、芭蕉は西行がここに来て詠じたことと信じて、恐らくは西行の遺跡を見るということを目的としてこの柳を見に来たものであろう。
『随筆芭蕉』(関趾を越える日)
山口誓子は遊行柳の芭蕉と蕪村の句碑を訪ねている。
田圃道を引っ返す。畦道を近道して、小学校を通り抜け、火の見の鉄塔が立っているところへ帰って来た。改めて田圃道を上の宮へ行く。野川沿いの道に出ると、前方に、鳥居や石灯籠が見える。近づくと石灯籠の左に、石の柵で囲って稚木の柳が立っている。
そのかたわらの土に立っているのは芭蕉の句碑である。拓本ずれのした自然石。
田一枚うゑてたち去る柳かな
(中 略)
主格が途中で変る妙な俳句だ。そうしないと、西行の歌を踏まえたことにならないのだ。句碑の建立は、寛政十一年。
私は、この句碑の立っているところから四囲の田圃を眺めた。芦野米という上質の米がとれる田圃だ。
鳥居の前の、常緑樹の下に、倒れて仰向いている句碑がある。蕪村の句碑だ。
柳 散 清 水 涸 石 処 々
これは「柳散り清水涸れ石ところどころ」と読む。この句には「神無月はじめの頃ほひ下野の国に執行して、遊行柳とかいへる古木の影に目前の景色を申出はべる」という前書が附いている。蕪村は実際に来たのだ。目前の景だと云うが、漢字ばかりで書いてあるこの句は、日本の、田圃の中の景とは思われない。
句碑の建立昭和二十三年、富安風生書。
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