俳 人

横田柳几
indexにもどる

『二笈集』 ・ 『つくば紀行』 ・ 『七時雨』 ・ 『月の直路』

柳几の句 ・ 『布袋庵句集』

横田柳几は本名盛英(八代目)、通称三九郎。

可都里『名録帖』に「柳几鴻巣 横田三九郎」とある。

 享保元年(1716年)、鴻巣宿で歴代酒造業を営む旧家に生まれる。

伊勢の麦林舎中川乙由に師事し、布袋庵の号を授けられた。

 元文4年(1739年)、乙由没後佐久間柳居の門に入り、柳几と改める。

 同年9月、白兎園宗瑞は秩父に行く途中で鴻巣宿に立ち寄り、柳几を訪れた。

   翌日鴻の巣柳緑の宅をたつねて即興

かはらぬを先見かけたり塀の松
   宗瑞

   山雀こから跡にはつ雁
   柳緑

『木々の夕日』

 元文5年(1740年)夏、宗瑞は再び鴻巣宿を訪れている。

 元文5年(1740年)7月頃、柳居も布袋庵を訪れている。

   文月朔日鴻巣柳几亭

来たはとて松にそよくやけさの秋


 延享元年(1744年)4月、建部涼袋は秩父から伊香保に向かう途中で鴻巣の柳几を訪ねている。

   鴻ノ巣にて

  かの地は風雨寒温気候ことごとくひとしからざれバ

こゝろせよ笋迚も厚着時   柳几


 延享元年(1744年)7月30日、宗瑞は60歳で没。

   白兎園宗瑞身まかりし時

この晦日月の兎も見かくしぬ


 延享4年(1747年)、名古屋の白尼と陸奥行脚。7月4日、柳几は象潟を訪れた。

丁卯のことし文月四日、汐越に来り、そこの良医金氏にいざなわれて蚶満種寺の書院より眺望す

象潟や一葉にこゝろ漕あるき
 武州
鴻巣駅



 延享5年(1748年)5月30日、佐久間柳居は63歳で没。

 寛延元年(1748年)、鎌倉の光明寺に参詣。『鎌倉十夜紀行』

 寛延2年(1749年)、『二笈集』刊行。

 寛延3年(1750年)、草津から善光寺に参詣。

   首 途

名月を笠に着て我頭陀袋

   草 津

町も今湯に咲く花の草津哉

   善光寺

蓮の實や爰を去る事遠からす

『草津紀行』

 宝暦3年(1753年)、筑波山から水戸を経て鹿島へ行脚。越中の麻父は鴻巣の布袋庵で柳几の帰りを待っていた。

 宝暦4年(1754年)5月24日、新潟に旅立つ。十日町の桃路亭を訪れる。

 宝暦5年(1755年)、『つくば紀行』刊行。

 宝暦7年(1757年)2月23日、横田柳几は千代倉家に泊まっている。

二月廿三日 晴天七つ比よりくもり 江戸在かうのす横江(ママ)(ママ)九郎殿柳几ト申誹人被参。とも壱人、上下弐人今夕泊り。はいかい有。夜ニ入蝶羅宅ニて、三千春、猶水、李青、亀章寄、歌仙有。□吸物夕飯うんどん打。

二月廿四日 くもり昼少前より雨ふり八つ過より快晴 今朝江戸客夜泊り被申候誹人柳几朝飯ニて出立名古屋へ今日被参候 蝶羅千鳥塚迄送り行。吾等挨拶句

      柳几主人道行を祝して

   神あれバ徳あり花のいせ桜

『千代倉家日記抄』(和菊日記)

 宝暦7年(1757年)、伊勢から大和、北陸を行脚。

   柳几兎秋かいせへ詣るに

よい発句して囀らせあふむ石


大阪天王寺の浄春寺を訪れている。

「芭蕉翁」と「芭蕉反故塚」の碑


一字つゝむかし巻出すはせを哉


 宝暦10年(1760年)、『七時雨』横田柳几編、横井也有序。

 宝歴13年(1763年)、芭蕉翁70年忌に布袋庵で一日千句の吟を行う。

 明和元年(1764年)、鳥酔は布袋庵を訪れた。

○遊布袋庵

あるし柳几子先ッ見せむと次のまより藁苞一ッ抱え出たり尾州の名産也誠に大猫をもかくすへし一句せよとあるにまかせて

 百里来て苞を又抜く大根哉


 明和2年(1765年)秋、加藤暁台は信濃路・武蔵野の旅をする。也有の紹介で鴻巣の布袋庵を訪ねている。

 明和3年(1766年)4月10日、千杏没。

身の上を知た覚悟や夏書迄


 明和6年(1769年)4月4日、鳥酔は69歳で没。

   蜀魂辞世有 鳥酔を悼

ほとゝきすこちらハ跡に老を啼


 明和6年(1769年)4月15日、田中千梅は江戸深川で没。享年84歳。

   初夏に千梅老人を悼
鴻巣布袋菴
西へ飛ふ実となる梅や一あらし
   柳几

『なつぼうず』

 明和7年(1770年)、『大和耕作集』刊。

 明和7年(1770年)4月、加藤暁台は奥羽行脚の途中で布袋庵に立ち寄っている。

尾城の暮雨主叟再び東下りして奥羽の志あるよし、かねて告こされけるまゝに、やつがれが江都の中やどりにむかえしばらく旅労をなぐさめ、武城の風雅に遊びて漸く卯月の末待うけたりし布袋庵に至り、七とせの再会を語て投轄の情をむすぶ、

巣をかしたあるじは老てほとゝぎす
   布袋庵
柳几

 残せし花もまことより
暁台


 明和9年(1772年)5月、嵐二を伴い下総境から古河を行脚。『古河のわたり集』

 安永2年(1773年)5月7日、嵐二を伴い鴻巣を出立。12日、野原の文殊寺に参詣。『鉢形紀行』

 安永7年(1778年)8月14日、篁雨を伴い関東三社詣でに旅立つ。『月の直路』

   矢さしか浦の銀杏亭を訪

一と筋に目当の的や月の主


 安永8年(1779年)3月1日、篁雨を伴い筑紫へ旅立つ。

三月朔日東海道を上りて木曾路を下る首途の吟

立と來る乙鳥や富士を一めぐり
   柳几

   雲遊千里の杖を試みて

旅立に虎の名うれし櫻かけ
   篁雨

『筑紫紀行』

 安永8年(1779年)3月19日、横田柳几は千代倉家に泊り、20日名古屋へ向かう。

三月十九日 晴天
 一、武州鴻巣横田三九郎殿柳几、松村文蔵殿篁雨、供壱人御越御泊。誹諧歌仙一巻出来。

三月廿日 晴天 柳几、篁雨、今朝名ごやへむけ御立。

『千代倉家日記抄』(学海)

 安永9年(1780年)4月14日、蝶夢は江戸を立つ前に柳几に会っている。

 十四日、そらうち曇りぬ。柳几が隠居へ文をくるに、とみにはしり来りて、「けふ迄もしらさゞりける事のうらめし」といふに、うちつれて小柳町といふ所の別屋に行。


 安永10年(1781年)1月19日、平橋庵敲氷は布袋庵を訪れ、25日迄滞在。『埼玉紀行』

 天明2年(1782年)1月21日、柳几は鴻巣から江戸小網町に向かう途中で浦和宿の星野本陣に泊まっている。

 天明2年(1782年)、『百花集』(柳几編)門瑟序。

 天明7年(1787年)、勝願寺に「芭蕉忌千句塚」を建立。

芭蕉忌千句塚


裏に柳几の句が刻まれている。

   碑面蕉翁の吟にて

夕暮をこらえこらえて初時雨

天明8年(1788年)2月9日、柳几没。享年73歳。

門人に桶川宿本陣の府川志風、上尾の山崎碩茂、吹上の喬駟、雨后がいる。

山崎碩茂は上尾市の氷川鍬神社に芭蕉の句碑を建立。

   柳几追悼

惜しや柳月日の鞭に折れけり


素丸は鴻巣の布袋庵を訪れている。

   鴻の巣布袋庵にて

撰り溜の袋さがさん麥の秋

   布袋庵留別

夏の日も馴染ば足らぬ別れ哉


勝願寺に墓地がある。

勝願寺仁王門


 熊谷市の文殊寺に布袋庵柳几書といわれる芭蕉の句碑が再現されている。

柳几の養子柳也も俳人で、布袋庵二世。

武蔵 
カウノス 横田庄右衛門 柳也


 寛政元年(1789年)、横田柳几追善集『春眠集』抱山宇門瑟序。

 寛政6年(1794年)、柳几七回忌に柳也は『春眠集』の付録として『布袋庵句集』を出す。

享和3年(1803年)8月13日、59歳で没。

柳也の句

恋痩の月や二八の其夜より


梅さくや月もさへきる朝ほらけ

『寛政四年歳旦集』

行ハゆくしされハしさる霞かな


鶯の錬に錬たる初音哉


俳 人に戻る