大淀三千風
『日本行脚文集』
巻之七
貞亨3年(1686年)9月中旬、大淀三千風は会津から山形へ。
貞亨三丙寅玄
(ながつき)
中旬、羽州最上山形につく。はや人々所望。
山形から尾花沢にやってきた。
鈴木清風
を訪ねたが留守。
芭蕉・清風歴史資料館
○かくて山形に袖辭
(いとまごひ)
し、暮秋念最上延澤、銀山ふもと、尾花澤に着く。當所には予が好身、古友あまたあれば、三十餘日休らひ、當所の俳仙、鈴木清風は古友なりしゆへとふらひしに、都櫻に鞭し給ひ、いまだ關をこえざりしとなん。本意なみながら一紙を殘す。記は畧す。
○最上河の船津にすめるときゝて古友のむかしをとふらひしに、饗おほかたならず。
○をのをの挨拶の句ども銘々に脇に小序せしが畧す。
○
稲乳いなにはあらず鉢袋
しられけり鐵西行の秋の暮 羽州大石田應野氏
一 栄
関山峠を越え、仙台へ。
松島
へ。
○過し天和に此うらの眺望集を撰祿して、櫻にひけらしぬれば、世人吾に表徳して松島軒とよばれしもおもはゆや。げに此島の群景は田胡浦の下にたゝむ事かたく、箱崎は松島の下をこそ思うらめ、偖眺望別集に記し侍れば、當浦の事は除し。
大淀三千風は貞享3年(1686年)10月から翌4年3月まで仙台の
亀岡八幡宮
に滞在している。
亀岡八幡宮
ちはやふる雲井が嶺の若松をうへつぎしより龜が岡の邊
常磐なる青葉が崎の松陰になを萬代の龜が岡のべ
角田から福島へ。
○かくてさらばの聲てもに三月廿二日、仙臺領角田を立、丸森坂を過、梁川通、武隈の松の二木陰あふくま河の川上をわたりて、福島にて、古友一塵翁、崇閑子にかたり、饗
(もてな)
し給ふ。たがひの餘算夢船の乗合、これやかぎりとふしおがみの坂までをくられし。
貞亨4年(1687年)3月27日、大淀三千風は須賀川に着く。
相楽等躬は
『俳諧荵摺』
に三千風の句を望んだ。
○此等躬丈、しのふすりといふ俳書をえらひし。予にも發句を望み給ひしまゝに、二句いひ置し
○九十日花さへあるを旅の暮
同所相樂氏
等 躬
○しのぶすりのはしに序
(ついで)
やかいつはた
貞亨4年(1687年)4月3日、大淀三千風は須賀川を立ち、
白河の関
に着く。
白河関跡
○卯月三日須賀川を立、白河の關につく。
秋かぜにあれてのゝちも白河の關屋と名のるほとゝぎす哉
貞亨4年(1687年)、大淀三千風は
白河の関
から
遊行柳
、
殺生石
を見いている。
○げに既に下野の國那須野にいる。かの道の邊柳、殺生石を見侍し。
4月8日、江戸に着く。
○大田原より日光道を右に見なし、
宇津宮明神
ふしおがみ、
室八島
、筑波山を遠見し、
くり橋
のはたしぶね、あとしら浪の卯花月八日に、江戸富田氏につく。
三島大明神
に参拝。
偖古跡古跡を狩果し。三島大明神に御橋拜す。嗚。松杉の梢にもぬけし大社なりしが。近き比炎上まします。げにも神代を慮かの火神軻遇突智血分
(ほつかみかぐつちゝわけ)
神大山祇尊なれは。火災あまたたびにやといと悲し。佐理郷の額に日本惣鎮守とかゝれしは。いとやんごとなき神になん。
4月26日、
清見寺
へ。
同卯月廿六日吹上の松。薩垂峠を過。清見寺にのぼる。三國一の風景。言翰のをよぶ所にあらず。されども獨つぶやく。
貞亨4年(1687年)5月2日、大淀三千風は
吉田
に着く。
○五月二日三州吉田觀音院に着。五年目にめくりあひし。各興行過て。さて
八橋
のむかしを。
杜若鷺立澤と成にけり
○鳴海の
笠寺
内海の沖。勢
(ママ)
田の社ふしおがみ。松子の島機谷を尋し。
生まれ故郷の伊勢射和に着く。
○既に天和三亥の春奥州仙臺を首途し、この年の卯、五月まで大旅五年、猶見殘し再順二年、元祿二巳の年まで、首尾七年の行脚成就し侍る。凡そ道徃
(のり)
三千八百餘里、一足も榮耀の馬籠にのらず、一宿借り兼し事なく、一飯に飢たる事なく、一病の障なく、一言の爭なく、萬満足の功をとり、一生の大願望の本意をとげし事、ひとへに天下泰平、時季満作の句に、仕合たる果報と獨笑して、此記の清書に意を去ざりし。
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