井泉水句碑
井泉水ゆかりの地
『随筆芭蕉』 ・ 『奥の細道を尋ねて』 ・ 『井泉水句集』 ・ 『大 江』
明治17年(1884年)6月16日、東京市芝区神明町(現:東京都港区浜松町)に生まれる。 明治33年(1900年)、16歳で投句を始める。 明治38年(1905年)、東京帝国大学に入学。河東碧梧桐の新傾向俳句運動に加わり、井泉水の号を用いる。 明治44年(1911年)4月、「層雲」を創刊。谷桂子と結婚。 大正2年(1913年)、季題制度の廃止を唱え、碧梧桐とも袂を分かつ。 大正3年(1914年)10月、道後温泉「ふなや」に宿まる。 大正9年(1920年)4月、荻原井泉水は夫人桂子と共に小豆島を訪れる。 大正12年(1923年)10月28日、妻桂子没。行年29歳。 |
十月二十八日朝、妻卒かに倒る、夕方、死す ただに水のうまさを云ふ最期なるか すべなく彼に水を與へるだけの我であつて |
大正13年(1924年)1月31日、母を失う。 |
一月三十一日夕、遂に歿す いまはの母の顔に我顔くつつける 久しぶりに母と並んで寢る事きれし母と |
大正13年(1924年)5月、京都東福寺の塔頭天徳院に身を寄せる。島遍路として、亡母亡妻を弔う小豆島八八ヶ所巡礼の旅に出た。 大正13年(1924年)10月、伊賀上野に芭蕉の遺跡を訪ねる。 |
大正14年(1925年)2月18日より別府温泉亀の井旅館に滞在。3月、九州誌友大会。 大正14年(1925年)7月、「室の八島」から「伊達の大木戸」まで旅をする。 大正14年(1925年)8月、尾崎放哉を小豆島の西光寺南郷庵の庵主として紹介した。 大正14年(1925年)8月、大石田から敦賀まで旅をする。 大正15年(1926年)4月7日、尾崎放哉は西光寺奥之院南郷庵にて没す。井泉水は内島北朗と共に南郷庵にかけつけた。 大正15年(1926年)11月、東海道を大垣まで旅をする。 昭和3年(1928年)7月、福島から山寺まで旅をする。 昭和4年(1929年)7月、芹沢寿子と再婚。 昭和5年(1930年)9月、長男海一誕生。 昭和5年(1930年)8月、『奥の細道を尋ねて』。小杉放庵の装幀。 昭和6年(1929年)6月3日、青函連絡船松前丸で北海道に渡る。 昭和7年(1932年)10月、佐渡の旅。 昭和8年(1933年)、荻原井泉水は尾崎放哉の生家を見る。 昭和8年(1933年)11月14日、其中庵を訪れる。 昭和14年(1939年)6月、芭蕉の奥の細道250年を記念して羽黒山で慰霊祭。 昭和16年(1941年)11月、荻原井泉水は岡山より津山へ。 昭和24年(1949年)10月、糸田町の木村緑平を訪ねる。 昭和25年(1950年)10月11日、其中庵跡に山頭火の句碑を建立。荻原井泉水書。 昭和26年(1951年)7月、芭蕉の句碑の表面を復刻。 昭和27年(1952年)10月12日、荻原井泉水は朱燐洞の墓に詣でる。 昭和30年(1955年)12月、『随筆芭蕉Z 奥の細道の道』。 昭和34年(1959年)4月7日、須磨寺に尾崎放哉の句碑を建立。井泉水書。 昭和50年(1975年)11月16日、料亭「筑紫亭」に山頭火の句碑を建立。荻原井泉水揮毫。 昭和51年(1976年)5月20日、死去。享年92。 |